侃々院>「岡崎偶感」岡崎久彦
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  十月八日 故瀬島龍三氏       


 瀬島氏逝きて、各界より追憶の辭あり。いづれも、陸軍參謀、シベリア抑留、伊藤忠商事など數奇の人生經驗を經し後、良く中曽根内閣を補佐し、國鐵分割民營化などに辣腕を振るひし、氏の行政的手腕を讃ふる一方、近代史、戰史の専門家の間においては、戰中戰後の時代について黙して語らず、歴史の眞實を解明せずそのまま逝きしを咎める聲また少なからず。


 余また氏との交遊淺からず。余より接近したりと言ふよりも、テレビ對談などにおきて瀬島氏より余を對談の相手に指名されしこと一度ならずありしと記憶す。然れども、余もまた氏の深く閉ざせし胸中を窺ひ知り得ざりしなり。


 氏を知れる人に氏の人柄を問ひしことあり。


 甲谷悦雄なる人物あり。かつて、陸軍武官としてロシアに勤務し、ゲーペーウーが次々に繰り出したる美女と次々に歡樂し、毫も隙を見せず職務を全うし、ゲーペウーの擔當官をしてガスパジン・アペティートゥヌイ(食慾旦那)と嘆かしめた豪の者なり。敗戰時は近衛聯隊長の要職にあり、辻正信を凌ぐ信望ある俊秀なりしと聞く。戰後は公安調査廳の草創時にありてソ連分析チームの中心となり、 余が分析課長在任時に、氏既に退官、獨立してKDK研究所を設立し、ソ連情報を分析提供せり。


 氏の瀬島評はただ一言、「あれは、複雜な人物だよ」と。


 中曽根内閣成立當初の訪韓に際して瀬島氏これに參畫す。余もまたこの間多少の接觸あり。時の外務審議官にしてやがて次官となりたる法眼晉作氏を余かねてより敬愛す。余、氏に瀬島氏の月旦を問ふに、これも一言、「あれは、あやしいぞ」と。


 余また思ひ當たる節なきにあらず。中曽根總理、「戰後政治の總決算」を呼號し、その一つとして、「平和問題研究会」を發足せしめ、總理官邸において二十回の會議を開きたり。 參加者の中、舊軍人は瀬島氏ただ一人なりき。舊軍、自衛隊のOBにして、瀬島氏と多少とも接觸ありし諸氏、これを千載一遇の機會とし、瀬島氏を通じて防衛計畫の大綱の再考、集團的自衛權の行使などを實現せしめんとするも、瀬島氏これを悉く拒否し、「鐵壁の如し」と彼らをして嘆かしむ。 諸氏、余に、再度の説得を依頼す。余、當時は外務省の一局長なりしが、當時キャピトル東急と呼ばれしホテルの瀬島氏の事務所を訪れ、説得を試みむとせしも、瀬島氏、開口一番、「君は、何に口を出しても良い、といふことではないのだ。」と、その背後にある氏の思想、論理、戰略論の一端も窺ひ知るの隙も与へず、その爪のかかる余地も無き氷壁の如き冷たさに余も戰慄せり。


 この經驗は余をして、法眼氏の「あやしいぞ」の一言が、瀬島氏のシベリア抑留に關連するを感得せしめたり。


 その後、ベルリンの壁崩壊して、ソ連邦も解體したる後、瀬島氏と會ふ機會ごとに、別人の如き、餘裕ある、温顔の老紳士の風あるに驚き、交遊を新たにせり。


 けだし、瀬島氏の一生は、大日本帝國崩壊の悲劇とその再建の激動の時代において、その卓越せる才能の故に、常人の能くし得ざる「複雜なる」人生を歩まざるを得ざりしものなりき、と言ふべきか。


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