侃々院>「岡崎偶感」岡崎久彦
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  七月十九日 粤王詩話 王蒼海        


 粤王大人、戰後危殆に瀕せし社稷に岳飛の忠を獻じ、天運の隆昌と共に官途を歩み玉ひ、昭末平初には重ねて印綬を親しく宮中に帯び股肱の使臣として友邦と誼を結び玉へり。その辭官の詩の萬感交集、もとより若輩の解すべきところに非ずといへども、御下問なれば敢へて管見をもつて一隅一反して學恩に謝することと致さん。


 粤王大人の詩意を謹解するに、まず、転句(起承転結四行之第三行也)の「纓」字に注目すべきなり。役人の冠の紐なれど、清廉の象徴として東洋では屈原以來の傳統あり。楚辞・漁父辞にこれあり。


 滄浪之水C兮,可以濯我纓,滄浪之水濁兮,可以濯我足。


 潔癖なる屈原が放逐され汨羅に至るに、隠逸の漁師に遭遇し、「川の水が綺麗なれば冠の紐を洗つて仕官するもよろし、水が汚ければさつさと足を洗ひたまへ」と忠告せらるるは、漢文の教科書にも必ずある次第なれば、贅言せず。また、十八史略には、「子路結纓」の故事もあり。案ずるに、この一語にて大人の清廉潔白、義勇奉公の決意並々ならぬものと知らる。


 その後、大人の心静かに冠を解き玉ふ様は、結句の通り。冠は又、屈原の漁父辭にあり。


 新沐者必彈冠,新浴者必振衣。


 潔癖なる屈原は、風呂上りに官帽と禮服の塵を拂ひたるなり。大人の詩が結句「解冠」の語には、その塵一つなき冠を初めて卸し玉ふ感慨溢れたり。君命を辱めず、完璧歸趙せんとして、その功を誇らず、花の謝すとともに静かにそれを緩くせんとするとの詩意なり。この冠は目に見ゆるものに非ず、大人の公務を敬ふ精神なり。


 されば、起句、承句にある春景の美も、その達觀の詩意にて解さざるべからざるなり。


 古來、花は、禪語にも用ゐらるるものなり。俗眼から見る花と、雲水が見る花は、風光を全く異にせると。愚生凡夫にしてその機微は不暁(わからず)といへども、「岡崎偶感」を案ずるに、大人、禪語を屡屡引き玉ふところを見ても、この消息あらむとぞ知る。


 愚生その謎を解かむとて、禪語集を閲するに、臨濟録にこの語あり。


 「拈花萬國春」


 心頭を滅却したる禪者からみるに、一輪の花をもつて天下の春を普く見るを得るなり。されば、庫倫泰府(くるんてえぷ)の花は、たちまちに寶玉に化し、また達流琳派の繪にも融通無碍に化するものならむ。


 起承轉結を愚考するに、大人の詩、博學と修養を以つて醸成し玉ふ禪儒一味の詩なりと解さるるなり。


 ここで机を拍きて驚嘆するに、禪語に精通し玉ふ大人の詩意、「拈花萬國春」を底に置きて、萬國とバンコックをかけたる洒脱か知らんと。訓詁の徒の狐疑嗤ふべし。とまれ、この詩の題を「萬國春」あるいは、「拈花萬國」となさば、禪味一層深からむ。


 恐惶頓首


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