侃々院>「岡崎偶感」岡崎久彦 |
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岡崎久彦 七月八日 宮澤喜一氏追想 六月二十八日 宮澤喜一氏逝去の報に接す。同氏に関はる追憶また尠なからざるものあるも、ここに、一九九〇年の灣岸危機より九一年十一月宮澤氏總理就任の前後に至る時期における氏との若干の接觸の思ひ出を記す。 九〇年夏、イラク、クウェイトに侵攻して、國際社會如何に對應すべきか、國外國内において、喧(かま)びしき頃なり。宮澤氏、休暇滞京中なりし余に、石油價格高騰を理由として軍事的對應の不可を説けり。 かかる軍事的侵略の事態において、油價ゆゑの戰爭反對論はそもそも腑に落ちざるも、余、サウジにおける米軍の防空ミサイル配備の状況を報告して、サウジ油田破壞は不可能なるゆゑ、油價は一旦上昇するもやがて低落すると論じ、これに對して宮澤氏平和主義を固執して譲らず。 然れども翌日、日經新聞の記者、余に電話あり、前日宮沢氏に述べし小生の説の詳細を聞きたしと言ふ。宮澤氏、その場では余の説に反駁せしも、心に留めてその内容を記者に語りたるなり。氏の知的寛深さを知りしはその時なり。 九一年春、氏のバンコック訪問あり、本使公邸にて懇談す。米英佛の機甲師團イラク軍を制壓せし後なり。 八九年ベルリンの壁崩れ、ワルシャワ同盟瓦解せり。英國は、ロンメル軍撃破の武勲を誇る英軍最強師團「砂漠の鼠」を、ライン河畔の對ソ正面より、サウジに轉送して戰鬪に從事せしむる余裕ありき。 當時、日米經濟摩擦最も嚴しく、冷戰終了に伴う日米同盟廢棄論もありし頃なり。余が最も惧れたるは、安保理においても決議に賛同せし中國の軍これに參加して、事實上日米同盟に代はることなりき。余、日本軍參加するとせば、北海道の第七機甲師團のほかなきも、歐州正面と異なり、極東ソ聯軍未だ健在にして、これを動かすの餘地なきを慨嘆せり。 宮澤氏勃然として、色を作(な)して、余の言の不謹慎を咎められたり。この時は、氏の反軍思想、いまだ抜き難きものあるを知れり。 九一年タイにクーデターあり、軍事政權成立し、米國は、國内法に從ひ直ちに援助を停止し、民生復歸までは政權と距離を置けり。 余、かねがね、タイの軍事政權はタイ政治の一種のチェック・アンド・バランスなるを信じ、自民黨副總裁金丸信氏の当時の威勢を借りて、日タイ關係をして、寸毫も、舊に異ならしめざりき。 軍事政権の下のアナン首相、余のケンブリッジにおける一年先輩にして相許す仲なり。アナン、公式訪日を希望し、余たまたま歸朝中にて、總理となりし宮澤氏に直訴せり。氏曰く、「クーデター政權なれば、殘されし任期幾ばくも無からん。その後に、かかる、共に語るに足るインテリの總理の現る保障もなし。今は良きチャンスなり」と。忽ち訪日實現す。 宮澤氏のインテリを愛することかくの如し。 ▼「粤王寓」表紙へ戻る ▼「文語の苑」表紙へ戻る |