侃々院>「岡崎偶感」岡崎久彦
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  岡崎久彦


  平成十九年端午 
   日本新黨結成時
       


 日本新黨結成時にも椎名素夫氏に關はる追憶あり。私事にわたるも、備忘録を兼ねて記したく讀者のご寛恕を得たし。


 平成四年六月、余は四十年間勤務せる外務省の退官を前にして、タイより歸國の準備中なりき。


 突然東京の細川護熙氏より電話あり。來る參院選に細川氏と共に日本新黨より出馬を求むる要請なりき。余、外地に大使を歴任し、東京の事情に晦(くら)し。直ちに椎名氏に電話して意見を求む。


 椎名氏の答へは意外なりき。かかる輕擧に應ずべからずと言ふを期待せしに反して、日本の政治を根底よりリシャッフルするの要ありと、余の立候補を支持したり。


 しかれども、余、その一と月前の文藝春秋に掲載されし細川氏の論文を讀みて、余と所論を同じくせざるを知り、數日後催促の電話ありしに對して、立候補を固辭したり。


 その後、椎名氏にその眞意を問ひしことなし。しかれども、これと前後して河野洋平氏、自民黨総裁に選出され、またやがて成立せし橋本内閣において加藤紘一氏の幹事長に就任せしを見ても、椎名氏が當時の自民黨の時流に絶望し居られし事は想像に餘りあり。


 平成十三年、九歳を過ぎて、小泉内閣、「自民黨をぶつ壊す」なるスローガンを掲げて發足し、これまた、余、當初はその意圖を危ぶみしが、安倍内閣成立の現在を思へば、その卓見なりしを知る。今にして思ふ、椎名氏、自民黨の病根を眞に知りしならん。


 しかれども、當時の余の進退においては、未だ、誤まりなりしとは思はず。日本新黨は上位三位まで當選なれば、余當選の可能性あり。その結果としては、余、組閣後、記者会見などにて、集團的自衛權の行使を主張して、政府部内意見不一致のため早々に辭表提出に至りし事ほぼ確実なり。あるいは、無事務め上ぐるを得たりとしても、九ヶ月後、元外相として路頭に迷ひしか。


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