岡崎久彦 - 朝鮮史散策 - 九
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 岡崎久彦


  その九 高句麗の強盛



 高句麗を降せし燕はその後幾ばくもなくして秦王符堅に滅ぼされ、その羈絆を脱せし高句麗は、 その勢威を回復し、三六九年、二萬の兵を率ゐて初めて南の方百濟を侵せり。


 百濟は、仁主比流王の第二子近肖古王の時にして、國力充實し新興の意氣高く、よく守り、翌年には、 逆に精兵三萬を率いて平壤を攻む。高句麗の王は力戰せしかども矢に中りて死せり。その後兩國怨みを結ぶこと甚だしく、 互ひに兵を出して侵伐すること、數代に亘りたり。


 ここに三國抗爭の朝鮮古代史は幕を開けたり。


 三九一年廣開土王立つ。王は十八歳をもちて新興國の王位に就き、三十九歳の壮年にて崩ずるまで攻め落としたる城六十四、 大いに百濟の領土を略し、穢(朝鮮半島北東部の部族)を征し、遼東半島を含む満州南部、朝鮮半島北半の一大疆域を確立せり。 ついで長壽王(四一三―四九一)立つや、まず、中國江南の東晉、ついで宋と修好して冊封を受け、江北の北魏とも修好して、 後顧の憂ひを斷ち、都を平壤に遷し、全半島併呑の勢ひを示したり。舊扶余、また國を保つこと能はず、王國を率いて降る(四九四)。


 この間百濟新羅は、あるいは連合してこれに當らんとし、あるいは、それぞれ、高句麗に質を入れて和を請い、 あるいは日本と結びて高句麗に對抗せんとし、變轉常なく、錯綜せる國際關係を展開せしが、概して兩國は同盟關係を維持しつつも、 百濟は日本の庇護を頼み、新羅は内々高句麗と通じてその安全を守らんとせり。


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