岡崎久彦 - 朝鮮史散策 - 八 |
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岡崎久彦 その八 任那建国 新羅、高句麗、百濟夫々に建國し、國勢を擴張するにつれて舊三韓の諸小國は漸次併合消滅せられしも、 其の中後世まで存續せしは任那、駕洛なりき。伽耶、加羅、狗邪と謂へるはみな同語なりと言ふ。 その始祖を金首露といふ。これまた卵生の傳説あり。後漢光武帝の時、金海の龜峰に異常の聲あり。ここに人ありや否やと。 駕洛の人曰く、わが徒あり。其の聲曰く、我皇天の命を受けて茲に降る。未だ幾ばくならずして仰ぎ之を觀ると、 紫繩天より垂れて地に着き、縄下に紅巾に包まれたる金の合子あり。開きて觀れば、黄金の卵六個あり。 翌日平明之を開けば、六卵化して童子となり、容貌甚だ偉大なり。十日餘りを經て身の丈九尺に伸び、 龍顔、彩眉、重瞳の異相を備へ,其の月の望月を以ちて王位に即きたり。始めて卵より表れた故に首露といひ大駕洛の王となる。 その餘の五人はそれぞれ五伽耶の主となりたり。之即ち六伽耶なり。 蓋し三国の強勢に危機を感ぜし伽耶諸國が統一を求めし傳説ならん。ただ、一人の指導者を仰ぐにあらずして、 傳説にいたるまで各集落の共同體の形を取りしは伽耶諸國の如何なる歴史的伝統に據りしものか、 滅亡に到るまで自主の邦たるを求めず、日本の庇護に頼りしは、如何なる理由に據りしや、 日本あるいは当時の倭人と如何なる関係ありしや、古代史の謎の一つなり。 其の統一の時期は百濟新羅が漸く統一國家の形を整へ、三國抗爭の時代となりし四世紀半ばのやや後、四世紀後半ならん。 林泰輔の書は、任那については我が國史に詳らかなるを以つて省略す、とのみ記せり。日本書紀,古事記の記事には口傳多く、 其の史實の是非を巡りて國史論爭となるの煩を避けしものならん。 例へば、當時の日本と朝鮮半島との關係を論ぜんとせば、まづ神功皇后の傳承にふれざるをえず。 其の記述はいかにも荒唐無稽なる説話なるも、他面、神功皇后が攝政なりしと推定さるる四世紀末、 日本が朝鮮半島に大兵を發して戰鬪に從事したるは廣開土王碑にも明らかなる史實なり。 この間の國史学者間の侃々諤々の論に加はるを避けしものならん。 他方青柳は、日本の古書を引用して、金首露は實は垂仁天皇が任那の求めに應じて派遣せし潮乗津彦命なりと斷ぜり。 稚気滿々たる帝國主義的推論にして、獨立後の韓國および戰後の日本の史家の間ににおいて、最早顧みられざること言ふを俟たず。 ▼ その九へ ▼「侃々院」表紙へ戻る ▼「文語の苑」表紙へ戻る |