岡崎久彦 - 朝鮮史散策 - 七
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 岡崎久彦


  その七 百濟建國



 百濟また扶餘の末裔にして、百濟王家は代々扶余を以て姓とす。


 百濟の始祖温祚王は、高句麗始祖朱蒙の子なり。朱蒙、卒本王の女を娶り二子を作り、長子を沸流と言ひ、次子を温祚と言ふ。 然れども、朱蒙かつて扶餘にありし時設けし子、類利を立てて太子となすに及び、二子は相容れざらん事を恐れて南の方馬韓に奔り、 馬韓王は、その東北百里の地を割きて與へたり。


 二子漢山に至りて、據るべきの地を望むに、沸流は海濱(仁川のあたりと言ふ)に居らんとす。二子に隨行せし十臣これを諫めて 河南の地に都せんと言へるも、沸流聽かず。故に民を分ちて沸流は海濱に赴き、温祚は河南の慰禮城に依り、十臣を以て輔國とし、 國を十濟と號す。


 沸流の地は鹽分多く、濕潤にして住むに適せず、沸流顧みて慰禮城を見るに都邑已に定り人民安泰なり。慙愧して死し、 その民皆慰禮に歸す。これまた、天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の長男海幸彦は零落し、次男山幸彦は榮えて その孫の神武天皇となりし説話と相似するものなり。


 温祚の勢力いよいよ盛にして、國號を十濟より百濟に易ふ。その地は元來馬韓五十四ケ國中の伯濟あるいは百殘なりし故なり。 林は、「我が國がこれをクダラと言ひたるはいかなる意義なるか詳らかならず」と記せり。當時よりクダラの語原は不詳なりき。


 百濟始めは漢の樂浪と好を修めしが、後に和を失してしばしば爭へり。故に都を漢山(京畿道廣州)に遷し、 新たに馬韓と境を定めしも、馬韓の衰微に乘じて、終に之を滅ぼせり。されども、これただ、 箕氏の末裔たる馬韓王を滅ぼしたるのみにて、馬韓全部を統一したるにあらず、その國勢はなほ微々たるものなりし、と言ふ。


 三國の勃興は、舊史によれば前漢の末期と言ふも、三國の勢力漸く盛となるは後漢末その衰微に乘ぜしものの如し。 倭國の記録漢史に表はるるもその頃なり。


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