岡崎久彦 - 朝鮮史散策 - 五 |
推奨環境:1024×768, IE5.5以上 |
岡崎久彦 その五 新羅建國 史書として形をなす古代朝鮮史は、高麗朝仁宗時(一一四五)編纂されし、三國史記なり。新羅本紀十二卷、 高句麗本紀十卷、百濟本紀六卷、その他列傳等全五十卷なり。 林、青柳は出典は明記せざるも、三國時代については三國史記に據ることは明らかなり。夫々、朝鮮史を記するに三國史記に倣ひ、 新羅、高句麗、百濟の順を以つてす。新羅と高句麗の建國はいづれが早きか知る由も無けれども、余もこれに倣ひ、 まづ新羅建國を論ぜんとす。 新羅始祖は姓は朴、名は赫居世なり。三國史記は即位を前漢宣帝五鳳元年(AD五七年)とす。 始祖を讚ふる神異傳説は多けれども敢へて記するに足らず。要は辰韓諸部族の長の中において、魏然として信望を蒐め、 後に神異傳説を生みしほどの英主なりしならん。 即位八年の記述に言ふ。「倭人兵をもつて境を犯さんと欲するも、始祖に神徳有りと聞きて還る。」又、三十年の記には、 當時の漢の樂浪軍が侵攻せしも、この地は夜戸を閉めず、民は相盜むことなきを見て、有道の國なりとして兵を還す、とある。 三八年重臣瓠公を百濟に使ひせしむ。百濟王咎めて曰く、辰韓、弁韓は我屬國なり、近年貢を輸せざるは何ぞと。 瓠公曰、新羅は開祖以來國力充實し、辰韓の道民はじめ、卞韓、樂浪、倭人も皆畏敬せりと。聞きて百濟王激怒すと言ふ。 これを以つて始祖治世六十一年の間に新羅勃興し、辰韓の地を統一して百濟より獨立し、三國鼎立の時代の到來せしを知るべし。 また現在に至る慶尚道と全羅道の相剋もすでにここに存す。 ちなみに瓠公は倭人にして、瓠(ひさご)を腰に結びて渡海し來たれる者なり。 三國史記冒頭より倭人の記述多けれどもその居住地詳らかならず。後漢書は言ふ。「樂浪海中倭人あり」と。 瓠公渡海の説に符合す。然れども境を接し新羅を犯せし記述を如何に解するや。また言ふ、九州北部の 「倭奴國は倭國の極南界なり」と。また魏志倭人傳は、狗邪韓國(任那)を倭の北岸と言ふ。之に由りて之を觀るに、 朝鮮海峽を挾みて南北の沿岸が倭の居住地なりしや、史論はいまだ結論を得ざるものの如し。 ▼ その六へ ▼「侃々院」表紙へ戻る ▼「文語の苑」表紙へ戻る |