岡崎久彦 - 朝鮮史散策 - 四
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 岡崎久彦


  その四 三韓



 華夏の勢力、秦の始皇帝以降東漸して朝鮮半島の北部までに及びしは既に記したる所なれど、 その外側の地域、即ち半島南部及び日本列島は未だ中國文明の及ばざる地域にして、わづかに魏志倭人傳の如き旅行記により、 限られたる時期と地域を窺ひ知り得るのみ。これは日本のみならず三韓につきても同じなり。


 林泰輔は、當時の三韓の状況を左の通り概括す。


 朝鮮半島南部は、古來辰國と呼ばれし地域にしてやがて分れて馬韓、辰韓、弁韓となれり。 馬韓は後の百濟にして五十餘國、辰韓は後の新羅にして十二國、弁韓は後の任那にして十二國あり。


 箕子の末裔衞滿に破らるゝや、その餘衆を率ゐて海路馬韓に至り、自立して韓王となる。 その後常に辰韓を制壓して、その勢力は三韓中之に及ぶものなかりき。


 辰韓には、秦の苛政を逃れし者多かりしかば、馬韓はその東部の地を割きて之に與へて居らしむ。 故にこれを秦韓とも言へり。されば辰韓人は自ら王たり得ず、その王たるものは皆馬韓人なりといふ。 しかれども、渡來人なるが故に文明の開けたることにおいては遙かに馬韓の上にありしが如し。馬韓にては土室に起臥し、 綿布を作るのみなりしに、辰韓にては家屋を築き、絹布を織り、又鉄貨を造りて近傍諸国と貿易をもなせる事あり。


 辰韓の言語には秦人の混入せしもの尠なからず、馬韓と言語を異にせり。 弁韓につきては、特筆すべき事なし、とのみ記述せり。


 辰韓後に新羅となり、名君英主相次ぎ、半島一の勇志の士よりなる精兵を擁して、遂に百濟を滅ぼして朝鮮統一を達せしが、 その民度の高さ、馬韓の羈絆を脱せんとの志望、既にここに兆すを見る。


 なほ、日本西部に秦人渡來の傳説多きも、秦の苛政を逃れし者多かりし當時の事情を思ふに、豈無稽の傳説にあらざるならん。


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