岡崎久彦 - 朝鮮史散策 - 三 |
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岡崎久彦 その三 箕子朝鮮 檀君神話を否定せし林泰助も、箕子朝鮮については「殷の箕子が地を朝鮮に避けたりといへるは必ずしも無稽の話にはあらざるべし。 箕子は紂王の近親にして王の淫虐日に甚しくその意見の行はれざるより、佯狂して奴となりしが、 周の武王が紂を伐つて之を亡ぼすに及び、その治下に立つを欲せず、遠方塞外の地に奔りしことは、事情の當に有り得べき所なり。」 と記せり。 箕子は、周の武王、殷に勝つや箕子を迎へて天地の大法を問ひたり(十八史略)といふ賢人なり。 後に殷の故墟を過ぎて殷の滅亡を歎じて麥秀歌を歌へり。當時伯夷叔齊は首陽山に隱る。箕子の周に仕へるを潔しとせず 遼東に遁れしもまた有り得べき事なり。 林は、當時の朝鮮は遼東より朝鮮北部を含みしものの如く、「箕子の來り住せしは恐らくは遼東地方なるべし」 と推定す。青柳の引用せる東國通鑑によれば「箕子は其民に教ふるに禮儀田蚕織作を以てし、人民の爲に禁八條を設け」 「其民相盜まず、門戸を閉づるなく、婦人は貞信にして淫ならず。」とあり。 「是より後數百年、舊史殘缺して詳に知るべからずと雖も、その部族は次第に南遷して平安道に入りしが如し。 秦の始皇が六國を統一し、長城を築きて遼東に至るに及び箕子四十餘世の孫と稱する箕否は秦を畏れて之に服屬せり。」(林) 秦末に至りて、衞滿、箕子朝鮮を簒奪し、衞滿朝鮮となる。漢の武帝は之を滅ぼし、樂浪等四郡を置けり。 以後後漢及び魏を經て、約四百年、時に二郡に統一され、後に帶方郡を加へて三郡となり、中國の郡縣たりしが、 三世紀末晉は、その衰微するに至りて、終にその支配を放棄せり。 ▼ その四へ ▼「侃々院」表紙へ戻る ▼「文語の苑」表紙へ戻る |