岡崎久彦 - 朝鮮史散策 - 二十五 |
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岡崎久彦 其の二十五 古代三国その後 先に百済滅亡に当たりて、天智天皇、百済善光王その他二千百余人を近江の国神崎郡などに居らしめ、田を給し世々官食を賜ひしことあり、その後も百済の遺民日本を頼りしもの後を絶たざりき。 高句麗滅亡後も高句麗人の日本に帰化せし者少なからず、七一四年、元明天皇七年高句麗人千七百九十人を武蔵に遷し高句麗郡を置くとの記あり。 また、新羅の帰化人も後を絶たず。六九一年、持統天皇六年三月には新羅の帰化人十四人を下野に置き、四月には二十二人を武蔵に置くとの記述あり。また七五九年淳仁天皇三年、新羅の沙門三十二人尼二人男十九人女二十一人日本に帰化し、朝廷はこれを武蔵に居らしめ、故に新羅郡の名ありとあり。 百済高句麗滅亡後その遺民の日本を頼りしは当然なるも、新興新羅、その極盛のときにあたって、新羅帰化人の多きは何ぞや。 蓋し、当時の日本、関東平野の開墾俄かに進み、恰も、米国独立後西部に新天地の拓けし如く移民を迎へしならん。元明天皇時武蔵の国和銅を献ぜしは、加州の金鉱発見に比するものありしならん。大仏を鋳造し、新羅出兵をも企図せし奈良朝の富強推して知るべきものあり。日本経済の急発展期なりしならん。 高句麗敗れて、民族抹殺に近き仕打ちを受けしも、高句麗族の別種にして黒竜江付近に住せる靺鞨族の大祚栄は驍勇にして善く兵を用ひ、靺鞨の諸部を服し、高句麗の余衆を容れ、高句麗の滅亡後三十年にして国を建てたり。後に唐もこれを認め、渤海国王に封ず。渤海、十四代二百二十八年間の社稷を保ち、其の盛時は唐と大いに交流し、文化の発達も見るべきものありしと云ふ。 渤海武芸王日本に修好を求めるに際し曰く、「武芸、しきりに諸蕃を惣(す)べ、高麗の旧居を復し、扶余の遺俗あり。但し、天涯路(みち)阻(へだ)たり、海漢悠々たるを以って、(日本と)音耗未だ通ぜず。親仁の結援、ねがわくば前経に叶はんことを。」 高句麗、百済共に古代扶余より出るを以って其の正統性を誇る風あり。古代三国の中ただ独り別種なる新参の新羅の半島制覇を快しとせず。古代日本また扶余より出る親縁なるを以って旧交を復せんの意なり。 余かって初めて韓国に赴任するに当たって、コロンビア大学教授レッドヤード氏の教えを乞ふ。氏は冒頭、”So you are going to Korea. They don’t like you.”とブラントに警告を発しつつ、日本皇室の起源は扶余なり、の持論を展開せり。余思へらく、これぞ日本学界、メディアの好話題にして氏の著書洛陽の紙価を高めん、その折に買い求めんと。然るに三十余年を閲してこの説を聞く事なし。 レッドヤード氏の消息も知らず。 ともあれ、この渤海王の書状を最後として、古代扶余に源を発する百済高句麗と日本との関係、遠く歴史の過去に没せり。 ▼ その二十六(古代史終章)へ ▼「侃々院」表紙へ戻る ▼「文語の苑」表紙へ戻る |