岡崎久彦 - 朝鮮史散策 - 二十六 - 古代史終章 |
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岡崎久彦 古代史終章 朝鮮史において、新羅王朝五十六代、九百九十二年は、始祖より第二十八代真徳女王までを上代、第二十九代武烈王より第三十六代恵恭王までを中代、第三十七代宣徳王より代五十六代敬順王までを下代と区分さる。この中代八王百二十七年間は、実に新羅千年の社稷の最盛期にして三十五代景徳王の治世二十四年にして極まれり。 時まさに唐玄宗の開元、天宝の治、本朝聖武、孝謙、淳仁の奈良朝の盛時にして、新羅の慶州、渤海の上京、日本の奈良、いずれも唐の長安を模してその妍を競ひしさま、恰もローマ帝国最盛期にアレクサンドリア、アンティオキアなど地中海諸都市、永遠の都のローマの制を倣いて、華麗繁華を極めし如し。 中でも慶州の文化の高きこと、咲く花の匂ふが如き奈良といへども一籌を輸するものありしと云ふ。 かの帝国主義者青柳南冥にしてこれを認めざるを得ず、「其の文化の度は遥かに日本の及ぶ所に非ず、」と云ひ、日本の文化のかっては新羅に優りたりとの持論にこだわりつつ を踏まえて、「青は藍より出でて藍より青からんとす」と記せり。 仏教は、後年明恵上人が敬仰してやまず、今猶栂尾の高山寺に「元暁絵」、「義湘絵」として其の名を残せし元暁義湘等の名僧を輩出し、民の仏教に帰依すること篤きこと、文武王四年には、民の争ふて貨財土田を寺院に施すを禁止せる事を以ってしても明らかなり。 仏寺、大伽藍の建立されしこと数ふべからず、その後世に残るものは尠し数へるほどなりといへども、今猶発掘により仏像工芸品の出土するもの考古学者をして応接に暇無からしむと言ふ。 儒学また、武烈、文武の統一の大業終りし後、第三十一代神文王に到り偃武の治を致すや、国学を設けて奨励し、州県郡の名を漢風に改む。また、天文博士、医学博士、算学博士を置き、学芸を振興す。 新羅の古都慶州は、今猶、遊子をして、八世紀に華開きし東アジアのコスモポリタン文化の残り香馥郁たるものを感ぜしむ。 (完) ▼「侃々院」表紙へ戻る ▼「文語の苑」表紙へ戻る |