岡崎久彦 - 朝鮮史散策 - 二十四 |
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岡崎久彦 其の二十四 日本、新羅を伐たず 新羅、唐に大恩を荷ひ、一意恭順の意を表したるに、唐に對して背反し、國運を賭して大唐と干戈を交ふる所以はなんぞや。大正時代の『朝鮮一般史』におきて小田省吾曰く、この面從腹背をあながち新羅の擴張政策に因るのみと解すべからず。唐の政策にも起因すと。 百濟滅亡後叛亂に遭ふや、唐は方針一変して舊百濟王族を百濟郡公に任じ舊民安撫を圖れり。之百濟國の再興に異ならず。文武王の奉書に「百濟は累代の深讐なり。今百濟の形況を見るに、別に一國を自立すべし。百年の後、子孫必ず呑滅せられむ。・・・長く後患無からしめん。」とあるが如く、唐の政策に反するほか無きこと、新羅國家百年の存亡に係かるものありたるなり。 唐羅六十年の對立の間、新羅の念頭を離れざりしは、日本、白村江の恨みに報いんとして唐と結び新羅を挾撃するの悪夢ならん。されば新羅頻りに朝貢して禮を盡くし、文武天皇時(七〇一)朝廷は大使を新羅に遣はし、勅書を賜ひ、朝貢の不斷を嘉賞せり。 然れども、北境安堵するや新羅掌を返すが如く尊大となり、日本朝廷におきては新羅征討の議起こる。新羅また貢物を土毛(土産物の意か)と呼び、物の數、舊に違ふ。よりて朝廷之を郤(しりぞ)け、新羅使を追ひ還す。 天平寶宇五年(七六一)朝廷は、美濃武蔵の少年二十人をして新羅語を學ばしめ、百濟敬福を南海道節度使、吉備真備を西海道節度使に任じ、船三百九十四隻を造り、四萬人に騎射陣法を習はしめ、使を伊勢に遣はし大神宮に奉幣し將に新羅を伐たんことを告ぐ。 然れども後(七六三以降)新羅を征するの議已む。史は其の理由を記せず。恵美押勝を誅し道鏡實權を握るの内政急を告ぐる時期迫りつつありしも一因ならん。ただ唐と結びて挾撃するの機を六十年間逸したる後、新興新羅に獨り當たらんとするの策、その成否いまだ期すべからざるものあり、おそらくは一時の感情論として立ち消えたるものならん。 ▼ その二十五へ ▼「侃々院」表紙へ戻る ▼「文語の苑」表紙へ戻る |