岡崎久彦 - 朝鮮史散策 - 二十三
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 岡崎久彦


其の二十三 唐新羅、半島の覇を争ふ



 百濟高句麗滅亡せしも、兩國それぞれに七百年の社稷の民の不屈不羈なる、舊王族、遺臣、あるいは孤城に立て籠もり、あるいは高句麗人においては北方諸族と結び、唐、新羅に服せず。


 ここにおいて、唐は遺民を懷柔して、要職に登用して唐の統治を行なはんとし、これに對するに新羅は百濟諸城を攻略して舊百濟領を手中に収め、高句麗の叛徒を納めて平壌城を抑ふ。ここに唐高宗は、新羅に異圖あるを責む。唐の問責に對し文武王懇篤なる書簡を以ちて釋明せるも、もとより兩者毫も讓る意圖無く、唐北邊に出兵し、互ひに勝敗あれども平壌城善く守る。


 文武王十四年(六七四)唐高帝、新羅の命に背くを怒り、文武王の官職を削り、在京の金仁問を立てて王と爲し、大軍を發して舊百濟の地に新羅を討たんとす。文武王使を遣はして入貢、罪を謝し、唐主之を許す。然れども新羅、更に百濟の地を取りて州郡となし高句麗の南境に至る。


 十五年唐軍二十萬、契丹、靺鞨の兵とともに新羅を討つも、新羅軍これを迎へて大小十八戰して皆勝ち斬首六千四十七級。唐軍克たず。十六年唐兵再び來たるも、また遂に克つこと能はず。


 新羅太宗文武王卒し、神文王繼ぐ(六八一)。唐主使いを遣はして曰く、我が太宗皇帝。神切聖徳千古に超出す。故に廟號を太宗と號す。汝が國の先王金春秋、之と號を同じうす、實に僭越なりと爲す。須らく急に之を改む可し。神文王使者に語り笑ひて曰く、念ふに先王春秋頗る賢徳あり、又良臣金信を得、三韓を一統す。薨ずるに及び臣民哀慕に勝へず追尊して之を號とし、覺えずして相犯せり。今教勅を聞き恐懼に勝へず。決して他意有るに非ず、と。唐主復た言はず。


 また唐主、高句麗寶蔵王の孫寶元を以ちて朝鮮郡王と爲し、百濟義慈王の孫敬を以ちて百濟王を襲がしむ。然れども僅かに殘れる二國の舊地は渤海靺鞨に入れたり。


 かくのごとく唐は斷じて新羅を許すことなきも、その後は僻遠の地に兵を用うるを厭ふ。文武王十六年の役より六十年の後(七三五)に至り唐玄宗初めて大同江以南の地を新羅に賜ふの勅を下せり。蓋し北方の渤海強盛となり、之と對峙するの要生ぜし故なり。


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