岡崎久彦 - 朝鮮史散策 - 二十二 |
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岡崎久彦 其の二十二 高句麗遂に滅ぶ 新羅武烈王金春秋崩じ文武王即位の翌年,すなはち百濟滅亡(六六〇)の五年前(六五五)、高句麗宝蔵王は百済と合して、大いに新羅の北境を侵し三十三城を略取したり。新羅の請ひにより、唐は以降年毎に大兵を發して高句麗を攻むるも蓋蘇文善く戦ひて守る。然れども、蓋蘇文死後(六六六)、長男男生と次男男建の間に隙あり。襲はれし男生走りて一城に據り、唐の援けを求む。 折りから新羅は白村江(六六三)に克ち百濟殘黨の亂平らぎ、高句麗討滅の期熟せりと、兵を唐に請ひ、文武王自ら金信等三十将を率ゐて唐軍と合す。高句麗男建、腹背に敵を受け、且は内訌を抱へつつ二年に亙り能く死闘せるも、遂に(六六八)唐羅軍平壤城を降す。 文武王論功を行ひ、金信には賜ふに最高の位階たる太大角干を以つてし、金仁問には大角干を賜ふ。 唐、安東都護府を平壤に置き、高句麗の故地を唐領とし、高句麗人三万八千三百戸を江淮の南、その他の諸州空曠の地に移住せしめたり。蓋し隋唐二代に亙りて頑強に漢民族の征服を拒みし、高句麗民族性の鎮撫馴致し難きを以つて、民族抹殺に等しき苛酷なる措置に訴へしならん。史上稀なる強悍勇武の民の末路哀れなり。かつてハニバルに惱まされしローマ、包圍占領後の瓦礫の山と化したるカルタゴを犂を以ちて平らにし、鹽を撒きて不毛の地となし、住民五萬を奴隷として連れ去りしを想起せしむ。 一九四五年四月大命を拝せし鈴木貫太郎、窓外の桜を見て思へらく、「軍人等、皆桜の散り行く如く、悠久の大義のために死なんとす。然れども、悠久の大義とはそも何ぞや。国家滅亡して、日本人の義残らんや。カルタゴ滅び、その勇武の民今いずこにありや。一塊の土残るのみ。今や已むのみ。今や已まん。」と。 もし戦いにして後数ヶ月続きたりとせば、残りの中小都市悉く焼き尽くされ、冬を前にして国民の飢寒に苦しみしこと想像するだに肌に粟を生ぜしめるものあり。鈴木貫太郎の歴史観能く日本をして高句麗と同じ運命を辿るを避けしめしと言ふべし。 青柳南冥曰く、高句麗は一小国を以ちて、乙支文徳、隋の文帝の大軍を敗リ、再び煬帝百萬の大軍を破り、更にまた唐太宗の十四萬の大軍を驅逐すること猛虎の群羊を驅るが如し。嗚呼赳々たる高句麗の豹貅大国をして惴々焉として之を恐怖拱手爲すなからしむ。何ぞそれ勇雄なるや。・・・七百年の社稷一朝にして空墟と爲る。丸都(高句麗王の都)の廢墟茫として訪ぬるに由無く、頭白き鵲が平壤の廢苑を翔びて悲鳴するを聞く耳、嗚呼悲しい哉。 ▼ その二十三へ ▼「侃々院」表紙へ戻る ▼「文語の苑」表紙へ戻る |