岡崎久彦 - 朝鮮史散策 - 二十一
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 岡崎久彦


其の二十一 百濟滅亡



 三國史記によるに、百濟義慈王(六四一〜六六〇)常に新羅を併呑せんと欲し、その數十城を奪ひ兵亂絶ゆる期なし。新羅王春秋自ら唐に赴き帝に謁して百濟の暴慢を訴へ援を乞ふ。唐朝蘇定方を以ちて兵十三萬を率いて百濟を征せしむ。新羅王また金信を遣はし、精兵五萬を領して赴かしむ。


 義慈王人を遣はし、先に流刑せられたる佐平(官名)興首に策を問ふ。興首曰く、唐兵既に多し、而して軍律嚴明、まして新羅兵と合す。若し平原廣野に對陣せば勝敗未だ知るべからず。白馬江、炭は百濟の要路なり、一夫槍を振へば萬夫も當たる能はず、宜しく勇士を擇び往きて之を守り、唐兵をして白江に入るを得ざらしめ、大王固く之を守備し其の資粮盡き士卒疲勞せるを待ちて奮撃せば之を破ること必ずなりと。大臣等之を信ぜずして曰く、興首君を怨む、其の言用ゆべからずと。王之を然りとす。


 既にして唐軍白江、炭を越ゆ。將軍伯勇士五千を率いて新羅兵と善く戰ひ血戰四合悉く之に勝つも、兵寡にして遂に力屈し、伯死す。唐軍潮に乗じて來たり迫る。百濟軍、衆を悉くして之を拒ぐも敗れ、死者萬餘、唐兵城に迫る。王左平の言を用ゐざるを悔ゆれども、既に免かれざるを知り、北に走る。


 王宮の諸姫美人大王浦に走り岩上より落花繽粉と墜ちて死す。後人その巌を名けて落花岩と云ふ


 その後百濟の遺臣福信等,敗卒を収め新羅軍に勝ち、周留城を保ち日本に援兵を乞ふに至りて、日本は派兵を決するも、白村江において唐羅軍に大敗するは、國史に詳らかなり。


 百濟義慈王は淫遊耽樂國を滅ぼせりとの史觀専らなるも、青柳南冥によれば雄勇膽決の英雄なり。歴史は所詮勝者の歴史なれば、あるいは然らん。其の十九冒頭に、戰ひの原因として、「百濟頻りに新羅を犯す」とあるも、おそらくは新羅史觀ならん。


 南冥この章を閉ずるに當たりて百濟義慈王を弔ひて曰く。百濟國を開きてよりここに三十世六百七十八年、假令白江、炭の険は保つ能はずとするも十四萬の唐軍數萬の新羅軍を一城の下に集む。英傑の士に非ずんばいづくんぞ此の如くならんや。英雄逝きてここに一千餘年、南扶余の墟、扶余氏の諸鬼後世長(とこしな)へに祀られずして晩風冷やかに落花岩を吹くのみ、嗚呼悲しい哉。


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