岡崎久彦 - 朝鮮史散策 - 二十一 |
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![]() 其の二十一 百濟滅亡 三國史記によるに、百濟義慈王(六四一〜六六〇)常に新羅を併呑せんと欲し、その數十城を奪ひ兵亂絶ゆる期なし。新羅王春秋自ら唐に赴き帝に謁して百濟の暴慢を訴へ援を乞ふ。唐朝蘇定方を以ちて兵十三萬を率いて百濟を征せしむ。新羅王また金 ![]() 義慈王人を遣はし、先に流刑せられたる佐平(官名)興首に策を問ふ。興首曰く、唐兵既に多し、而して軍律嚴明、まして新羅兵と合す。若し平原廣野に對陣せば勝敗未だ知るべからず。白馬江、炭 ![]() 既にして唐軍白江、炭 ![]() ![]() ![]() 王宮の諸姫美人大王浦に走り岩上より落花繽粉と墜ちて死す。後人その巌を名けて落花岩と云ふ その後百濟の遺臣福信等,敗卒を収め新羅軍に勝ち、周留城を保ち日本に援兵を乞ふに至りて、日本は派兵を決するも、白村江において唐羅軍に大敗するは、國史に詳らかなり。 百濟義慈王は淫遊耽樂國を滅ぼせりとの史觀専らなるも、青柳南冥によれば雄勇膽決の英雄なり。歴史は所詮勝者の歴史なれば、あるいは然らん。其の十九冒頭に、戰ひの原因として、「百濟頻りに新羅を犯す」とあるも、おそらくは新羅史觀ならん。 南冥この章を閉ずるに當たりて百濟義慈王を弔ひて曰く。百濟國を開きてよりここに三十世六百七十八年、假令白江、炭 ![]() ▼ その二十二へ ▼「侃々院」表紙へ戻る ▼「文語の苑」表紙へ戻る |