岡崎久彦 - 朝鮮史散策 - 十九
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 岡崎久彦


其の十九 金春秋高句麗に使ひす



 百濟頻りに新羅を侵すにあたりて、六三四年春秋高句麗に使ひし、高句麗の兵を乞ふ。麗王春秋の常人に非らざるを見て、囚へて還さず。かへりて、高句麗の故地を返すを求む。


 春秋、王の寵臣に賄ふ。寵臣曰く、子また龜兎の説を聞けるか。昔東海の龍女心を病みて兎肝を求む。龜、龍宮城に案内せんと僞りて兔を背に載せ、游行數里にして其の意を告ぐ。兔曰く、噫吾肝を出して洗ひ、岩石の上に置くと。龜これを信じて還る。岸に上がるや兔脱して草中に入る。


 春秋其の意を覺り、書を王に致して、地を返すを約す。春秋既に六旬にして歸らず。將軍金信これを救はんとして兵を出す。兵既にして漢江を渡る。先に春秋の書を閲せし高句麗王この報に接して、禮を厚うして春秋を送り歸す。春秋境を出でて送者に謂ひて曰く、國家の境域は使臣の専らにするを得る所に非らず、死を逃れんことを圖れるのみと。


 前章に述べし如く金春秋、其の十四年後には敢へて日本に質となりて對日工作を圖りしも、大化の改新後の中大兄皇子新政權は百濟との舊誼を重んじ,日羅の百濟挾撃の策は成らざりき。


 その間新羅は隋唐に對しては、常に臣禮をとり、遂には唐と力を併せて百濟高句麗を滅ぼせリ。されども、新羅の素志は半島の統一にあり、その後は百濟の故地を併せ、舊高句麗叛徒を容れ、唐と敵對せり。


 日本とは百濟の役の間は敵對せしも、唐羅戰ふに當りて、其の背後の安全を圖り、頻りに調物を貢し、日本と結託せんとすること甚だ切なり。しかれども後に大同江以南の地を唐より得て國境の安定を得るや、朝貢を罷め、尊大の態度を取れリ。


 新羅外交の變轉極まりなきことかくの如し。植民地時代の日本人は、日韓併合前の韓國、あるいは清國からの獨立のために日本に頼り、あるいは日本の壓迫を脱れんがために清國、ロシアに頼りしを以ちて、韓國を歴史的に變節背信の民族なりと蔑視せるも、林泰輔は流石に帝國主義時代前の明治人なり。


 統一後の新羅は「日本に對してまた傲慢の態度を執るに至れり」と記述したる後、續く文章におきて、「當時新羅の外交に於ける、その操縦に意を用ひしこと此の如し、よく半島南部を統一したるは、決して偶然に非らざるなり。」とその外交を賞賛したり。


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