岡崎久彦 - 朝鮮史散策 - 十八 |
推奨環境:1024×768, IE5.5以上 |
岡崎久彦 其の十八 新羅の三国統一と花郎 新羅は武烈王(六五四―六六一)、文武王(六六一―六八一)の二代において百済と高句麗を滅ぼして三国を統一せり。 武烈王は、名は金春秋。新羅中興の祖真興王の孫にして、半島動乱の時期に際して、善徳、真徳の二女王を補佐して能く国を守り、五十二歳にしてその後を継ぎ即位す。 六四七春秋、善徳女王死後の内乱を鎮圧し、真徳女王を立てるや、遣新羅使高向玄理を送りて来朝し、孔雀一羽、鸚鵡一羽を献ぜり。 『日本書紀』は、「春秋、姿顔美(よ)くして、善(この)みて談笑す」と記せり。後世の史家これを釈して、「悠々として迫らぬ風貌(井上光貞)」とせるも、おそらくは誤りならん。文字通り、容姿端麗と解すべし。当時朝鮮半島及び日本において、女子のみならず男子の容姿美しきを尊しとする文化ありしは、新羅に花郎ありし一事を以ってしても想像し得る。 花郎は真興王(五四〇―五七六)美女を徴して侍べらしむるも、その互いに嫉視するを悪(にく)み、代わりて美男子を徴せしが初めと言ふも、その後は、「君に忠」、「親に孝」、「交友の信」、「臨戦無退」,「殺生有択(みだりに殺さず)」の五戒を守り、数多の戦場において、掟を守りて不退転の勇を示すことテルモピレーのスパルタ戦士の如く、祖国新羅に勝利をもたらせしエリート戦士の集団となれり。 真平王(五七九―六三二)の時新羅餓ゆ。諸舎人倉穀を盗み分つ。舎人剣君独り受けず。笑って曰く、僕、花郎なり。その義に非ずんば千金といへども心を動かさずと。諸舎人その盗の洩れんことを恐れて、殺さんとして剣君を召す。剣君、諸花郎に辞して曰く今日の後、復た見ることなからんと。有司に告ぐべしと言ふに、剣君曰く、我死を恐れて人を罪に致すは忍びざる所也と。しからば、何ぞ逃げざるや、と問ふに、彼曲にして我直にして、自ら逃ぐるは丈夫に非ざる也と。遂に行きて死す。新羅花郎の志操清烈なること泳雪の如し。 ▼ その十九へ ▼「侃々院」表紙へ戻る ▼「文語の苑」表紙へ戻る |