岡崎久彦 - 朝鮮史散策 - 十六 |
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岡崎久彦 其の十六 唐太宗高句麗を撃ちまた勝たず 六四二年泉蓋蘇文高句麗榮留王を廃立す。蓋蘇文性凶暴にして王諸臣と謀り密かに之を除かんとせるも、事洩れ、蓋蘇文諸大臣を宴に招きて悉く之を殺し、王をも弑して王弟寶蔵王を立て國事を専行せり。 時に新羅、高句麗百済の強壓を受け唐に救を求む。唐太宗高句麗に詔諭するも蓋蘇文聴かず、ここに大兵を發し、太宗親しく遼水を渡り、遼東を屠り、安市城を圍み、國都平壌を衝かんとす。然れども、唐軍八十八日力を盡くせるも安市城頑強にして屈せず、漸く寒氣迫りて、糧食盡きんとして兵を還す。 十八史略曰ふ。是の行、十城を抜き、戸口七万を徒(うつ)し、三たび大いに戦ひ、首を斬ること四萬餘級なり、然れども戦士の死する者幾三千人、戰馬の死する、十に七、八にして功を成すこと能はず。上、深く之を悔い、歎じて曰く、魏徴若し在らば、我をして此の行有らしめじ、と。命じて驛を馳せ(早馬を都に馳せるの意)、徴を祠るに小牢(羊と豚)を以つてせしめ、また碑を立てしむ、と。 十八史略其の前年の記に曰く、鄭公魏徴卒す。上曰く、銅を以つて鏡と爲さば、衣冠を正すべし。古を以つて鏡と爲さば興替を見る可し。人を以つて鏡と爲さば、得失を知る可し。徴倶、没して、朕一鏡を亡へり、と。 また、かつて魏徴、上に告げて曰く、臣をして良臣と爲らしめよ、忠臣と爲らしむること勿れ、と。面を冒して忠諫して、身誅せられ國亡し、青史の忠臣となるよりも、君臣心を協(あは)せて倶に尊榮を享けし良臣とならんの意なり。中國史上第一に數へらるる名君太宗と名臣魏徴の君臣相信ずるの情、今なほ偲びてあまりあり。 他方、暴君の下にありつつも、外敵に対しては結束して之に當たり、遂に疆土を讓らざりし高句麗の強悍、愛國心、もって現代に至るまで韓國、北朝鮮が民族の歴史として誇るも、またうべなるかな。 ▼ その十七へ ▼「侃々院」表紙へ戻る ▼「文語の苑」表紙へ戻る |