岡崎久彦 - 朝鮮史散策 - 十五 |
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岡崎久彦 其の十五 高句麗の武勲詩 六〇七年隋の煬帝詔を下して高句麗を伐つ。左右二十四軍およそ百十三萬三千八百人、二百萬と號す。 船三百艘を造らしむ。官吏督役し晝夜水中に立ちて息まず、腰より下蛆を生じ死する者十に三、四。河南北の民を徴し米及び兵甲攻具を運ばしめ、軸艪相次ぐこと千餘里、往還する者常に數十萬人、晝夜絶えず、死する者相枕し天下騒動す。 人馬に百日の糧を給し、甲槍幕舎と共に運ばしむ。兵重きに耐へず。米粟を遺棄する者は斬らんと令するに、士卒皆坑を掘りこれを埋め、路半ばにして糧食盡きんとす。 高句麗の大臣乙支文徳、軍に飢色あるを見て、戰ふごとに詐リて敗れ走る。隋軍勝ちに乗りて此れを逐ひ、遂に薩水(清川江)を渉り平壌城三十里に至る。城防備固くして俄かに抜くべからず。糧乏しく兵を還さんとして薩水を半ば渉るに、高句麗軍之を痛撃す。初め軍の遼河を渉るや三十萬五千、還るは唯二千七百人、軍の資材機器蕩尽す。 六一三年煬帝ふたたび詔して高句麗を伐たんとす。麗兵數萬能く拒ぎ戰ひ、遼東城久しく降らず。煬帝布嚢百萬餘を造らしめ土を滿貯して積み、廣さ三十歩高さ城と齊しくし、また八輪の樓車を作り高さ城を出で、城内を俯射せんとす。城内大いに恐る。たまたま内亂の報あり、軍を返すに及んで、麗軍追撃して數千を殺す。 翌六一四年再征を詔するも、時に天下既に亂れ徴するところの兵到らず。高句麗また疲弊して和を請ひ、高句麗王の入朝を約す。煬帝大いに悦ぶも、入朝に至らずして隋滅ぶ。 煬帝東征の役、出師の盛んなること前古未だ之有らざる也。高句麗強悍、東邊の小國にして能くこれを拒ぐ。とくに薩水の役こそ、バルチック艦隊の覆滅に比すべき朝鮮民族の一大敍事詩なれ。現在の韓國の、高句麗の故地に對する想ひの深さもここに起因す。 ▼ その十六へ ▼「侃々院」表紙へ戻る ▼「文語の苑」表紙へ戻る |