岡崎久彦 - 朝鮮史散策 - 十四
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 岡崎久彦


  其の十四 隋興る



 四世紀初頭華夏の力衰へて、中國北方は五胡跳梁し、東アジアの諸民族の活動漸く活發となりしが、六世紀末隋の天下統一(五九〇)によりて東亞のバランス・オブ・パワー再び一変す。


 半島におきては、百濟聖明王敗死(五五四)より、半島統一を達成せし新羅武烈王即位(六五四)まで正に百年なり。其の前半五十年はほとんど戰ひはなく休戰状態なりしも、後半五十年は三國互ひに攻戰に日も足らざる時期となれり。これ隋の出現に觸發されしものなり。


 隋が陳を滅ぼすに及び、高句麗平原王はこれを大いに惧れ、兵を治め穀を積み防御を固め、他面隋と修好して遼東郡公に封ぜらる。しかれどもその子嬰陽王の時和破れ、隋の文帝は、水陸の軍を發せしも高句麗よく守りて克たざりき。この時百濟は使ひを隋に遣し表を奉りて隋の兵を迎へんとし、大いに高句麗の怨みを買へり。


 高句麗は直ちに百濟に向かひ、漢江流域の回復を圖れるも新羅の兵これを退けり。その後の三国の關係錯雜輻輳してこれを記するに難きが、大勢としては、百濟は舊任那の新羅領を侵食し、高句麗は舊帯方地帯を侵し、新羅はしばしば腹背に敵を受けたり。後に新羅が唐と結びて、半島を統一するを必然ならしむる形勢ここにすでに胚胎せり。


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