岡崎久彦 - 朝鮮史散策 - 十二
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 岡崎久彦


  その十二 任那加羅の滅亡



 任那位置するところの朝鮮半島南部は魏志倭人伝に拠れば、倭国の極北界と解することも可能な地域なるも、戦後の史書、任那に觸るる所極めて怯なり。特に任那日本府につきては、朝鮮総督府を想起せしむるとて韓國史家の反撥強く、記紀に記載あるも朝鮮側の史書には對應せる記事無きを以って、全否定し、日本側史家も韓國の反應を慮りて、これに觸るるを憚る。


 戰後偏向史觀を克服せんとする『新しい歴史教科書』と雖も、わづかに「高句麗は、新羅や百済を圧迫していた。百済は大和朝廷に救援をあおいだ。日本列島の人々は、もともと鉄資源を求めて、朝鮮半島南部と交流をもっていた。そこで4世紀後半、大和朝廷は海を渡って朝鮮に出兵した。大和朝廷は、半島南部の任那(加羅)という地に拠点を築いたと考えられる。」と記するにとどむ。。  


 任那加羅は朝鮮史上は、弁韓と呼ばれし地域なり。馬韓辰韓それぞれ漸次百濟新羅に統一され、それと境を接するに至りて弁韓諸国また存立の危機を感じ、日本の援けを求め、これに應じて派兵せし日本はその據點を任那日本府と呼稱せしものなり。


 任那滅亡の過程次の通り。任那加羅諸國の内新羅と通ぜし伴跛國、百濟との境の地を爭ひ、大和朝廷これを百濟に與ふ。ここにおきて百濟、望蜀の念を以ちて更に四縣の割譲を奏請し、大和朝廷は、これを非とする論もありしが、いづれ永くはこの地を守り難しとして、廟議一決す。當時の大連(おほむらじ)大伴金村百濟よりの賄賂を受くとの流言もありしといふ。


 新羅これを見て座視せず。殘餘の任那加羅に侵攻す。大和朝廷これを救はんとし、まず新羅と内通せし磐井を討ちて任那に向かひしも、功を奏せず、最後の任那王仇衡は遂に新羅に降る。時に新羅法興王十九年(五三二)なり。


 神功皇后の説話に見らるる、新羅を討つに先立ちたる熊襲平定は、おそらくは磐井の亂平定の記憶の混入せしものならん。


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