岡崎久彦 - 朝鮮史散策 - 十一
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 岡崎久彦


  その十一 百濟の衰退



 高句麗長壽王六三年(四七五)百濟を攻めんと欲して間(情報工作)すべき者を求む。僧、遁琳これに應じ、詐りて百濟に亡命し、碁を以つて百濟王の寵を得たれば王に勸めて曰く。大王當に崇高の勢ひ,富裕にして民を愛するも、城郭宮室足らずと。王これを聞き、國人を發して土を蒸し城を築き、宮室樓閣壮麗を極む。是より百濟、府庫虚渇し、人民困窮す。遁琳逃れ還りて高麗王に是を告ぐれば、王喜びて、兵三萬を率ゐて百濟の漢城を圍む。


 百濟王その子文周に言つて曰く、予愚にして不明、姦人の言を信じてここに至り、民貧しくして兵弱し、誰か敢へて我が爲に力戦せん、汝共に死するも益なし、と文周を南行せしむ。


 麗兵、數月餘の包圍の後漢城を抜く。王を捕らへて害し、男女八千人を虜にして帰る。この時高句麗の諸将は王に説きて百濟を平定せんと勸めたれども、王は日本を憚りて矛を収めたりといふ。


 文周王位に即く。初め文周救ひを新羅に求め、兵一萬を得しも、すでに城の破れたるを知り、退きて熊津に遷都す。文周王は、性柔にして斷無し、されど能く民を愛す、と史書は記せり。


 ここにおきて百濟は帯方郡の故地を全て失ひ、わづかに日本の後ろ盾により國勢を保ち、その後國勢に變轉はありしも、再び往時の如く半島に覇を唱ふることは無かりき。


 實はその後七十七年を閲して、百濟聖明王は新羅眞興王と連合して高句麗を攻め、舊帯方郡の故地を回復し、新羅はその内十郡、百済は六郡を得しも、百濟の國勢衰微して占領地を支ふる能はず、やがてそも新羅の併する所となれり。ここに聖明王親しく歩騎を率ゐて新羅を襲ふも卻へりて伏兵に遭ひて死す。以後羅濟百二十年の連盟關係破れ、兩国は怨みを結ぶに至れり。


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