岡崎久彦 - 朝鮮史散策 - 一
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 岡崎久彦


  その一 序



 予曾つて韓國に遊びし時、ソウルの古書肆を渉獵して得たる朝鮮史の稀覯本二册あり。 明治四五年林泰輔著す所の『朝鮮通史』と大正六年青柳南冥著の『朝鮮四千年史』これなり。


 明治四三年日本は韓國を併合せり。大日本帝國は初めてアジア大陸に地歩を得たり。朝鮮は最早外國の地に非ざるなり。 その歴史、地誌は自らのものとして究めざるべからず。恰かも十九世紀において大英帝國の歴史家、 旅行者が、世界中の歴史、地誌を書き盡くせし時代ありしを彷彿とせしむ。


 林泰輔はすでに明治二五年に朝鮮史五卷、三五年に朝鮮近世史三卷を著はせし朝鮮史の泰斗なり。 その後暫く朝鮮史は後進に委ねて遠ざかり居りしが「東洋の局面次第に變遷し、 朝鮮は終に我が領土となりて益々その歴史の必要を感じるに至りたれども、世の研究者は皆愼重の態度を執り、 敢へて筆を下してその需用に應じるものなき」状況に於いて、冨山房の懇請により、舊稿を整理して通史とせりと言へり。


 故に林の書は、大日本帝國の發展を讚へ、朝鮮併合を正當化せんとする植民地主義時代の時流に染まらず、 もとより日本の占領を怨嗟し、過去の韓國史を美化せんとする戰後韓國史觀とも異り、公正客觀的にして文章清雅なり。 聞くならく、韓國光復後、學校教育に用ふる史書なく、暫くはこの書を用ゐしと。うべなる哉。


 青柳の書は、すでに同時代のキプリングの如く、帝國主義史觀の色濃しとは言へ、 その漢籍讀み下しの能力は到底今人の及ばざる所あり、文章達意にして雄勁なり。


 よりて、この二書よりの引用を中心として朝鮮史の散策を試みむ。


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