岡崎久彦 - 朝鮮中世史散策 - 九
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 岡崎久彦


  其の九



 高麗朝初期の史蹟の一に數ふべきものとして科擧の導入あり。(太祖の三子、四代光宗九年、AD九五八)
 科擧、その後、現在の韓國の高等孝試に至るまで、朝鮮の社會に深く根を下ろせり。縁故による任用はありしも、それは下級官吏に留まり、李朝に至つては、三代科擧入試者無き家は両班の資格を失へりと言ふ。千年に亘り、中途、武官の専横による中斷の期間在りしとは言へ、かかる完備したる官僚制度、嚴しく維持せられしは感嘆するに足る。
 我が國において、平安朝初期、一應科擧の制採用せられしも、任用は下級官吏に限られ、それも武士の勃興により廢れしこととは對照をなせり。


 何故に我が國において、科擧の制度根付かざりしか、その理由は余、年來の疑問なり。
 おそらくは既に、詳細なる史的資料に基づく専門家による分析は在らんも、余が回答を求むるは、これ、日本文化の東アジアにおける後進性の故なるか、獨自性の故なるかの設問なり。


 聞説(きくなら)く、江戸時代に日本に來訪せし朝鮮使節、日本に、共に語るべき士(科擧を經たる高級インテリの意)無きを訝れりと。若し明朝、清朝の使節、日本を訪るるの機會あらば、朝鮮と比較しての日本の後進性に對する輕侮の念を持ちて、同じ感想を抱きしならんこと、想像に余りあり。
 日本、朝鮮ともに、統一國家草創期たる奈良、新羅朝を經て、文物、制度漸く整ふ高麗平安初期の安定期に當りて、日本においては既に藤原門閥の確立しありしが理由ならんか。菅原道眞のごとき碩学が藤原氏に疎まれ,廟堂より逐はれし事例を見ればその説も首肯すべきものあり。
 東アジアの文化を中國中心と考ふれば、藤原門閥の故に先進制度を採用し得ざりしは、日本の後進性に非ずして何ぞや。
 科擧の制、日本文化に馴染まずとの説、明治以來の高等文官制度、戰後の上級公務員制度なくして、日本の近代化あり得ざりしを思へば、これまた謬説たるを免れず。
 近世以前の東洋史において、日、中、韓の當時における社會の優劣を比較せば、中國、韓國の文明、日本を凌ぎし時期ありしことは、多々例証可能なり。日本の明らかなる優越は、近代、或いは遡りても江戸時代において實證し得るのみなり。


 他面日本文化の独自性を主張せんとする側より見れば、科挙の制は中國の専制政治を化石化せしめし主因たり。
 ライシャワー博士の指摘せる如く、中國朝鮮が科挙の制度の下に中央集権的専制主義を維持せしに反して、日本のみが、独立不羈の武士階級を生み、西ヨーロッパに比すべき封建主義を発達せしめて,近代化の条件を整へありしこと、これまた、厳然たる歴史的事実なり。その間如何にして日韓歴史が分岐せしかの経緯、次章において述べることあらん。


 戦後半世紀あまりを経て、漸く近年、日本文化の独自性の説く者少なからず。原始日本人、中國大陸よりに非ずして、北方より渡来せりとの説もっぱらなり。また、万葉,古事記などの古典に中國文化と異質なる文化の源泉を見出さんとの説また尠なからず。
 ハンチントン教授、『文明の衝突』において、日本を中國と別個の文明に数へしもしばしば援用されあり。
 但し、余、教授が『文明の衝突』の執筆中に交遊ありしも、教授がとくに東アジア文明について独自の見識を有せしとは思はず。むしろ、近代史以外に東洋の知識無き欧米人として、近代日本を到底中國文明の一部とは信じられざりし故ならんと思ふ。しかれども、教授の説日本の言論界に影響せしところ、少なからざるものあり。


 畢竟は勝てば官軍ならん。二十世紀東アジアにおいて唯一日本、いち早く近代化に成功し、帝國主義列強に名を連ねしは否定すべからざる事実なり。而して、そのもとを尋ぬれば、近代以前の日本において、西欧と類似したる封建制確立せしは事実なり。


 かく考ふれば、科挙の制日本において行はれざりし理由は、民族の資質、文明の先進度の差にあらず偶然の所産ならん。すなわち、日本の地理的地位、朝鮮、越南に比して、中國文明の中枢よりの距離大なる環境に起因せしものならんと思ふ。
 AD八九四の遣唐使廃止後、両國の指導階級交流せし記録は数ふるに足らず、まして中國の要人の公式来訪を受けたる例,元使による降伏勧告以外、皆無なるも、史上一奇観なりと言ふべし。


 かく見るに、中國との関係について、朝鮮、越南と日本との間の親疎の差は歴然たるものあり。
 日本は両國と較べ、中國の文物制度と直接接するの機会少なく、その時代における先進文明たる中國の制度、慣習にコンプレックスを感じ、模倣の必要に迫られしこと遥かに尠なかりしならん。








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