岡崎久彦 - 朝鮮中世史散策 - 八
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 岡崎久彦


  其の八 



 契丹、聖宗(九八二―一〇一一)の時に至りて、其の國勢愈々盛んなり。聖宗、さきに高麗と和して其の朝貢を容れ、後背を固むるや、新興の宋帝國と戰い、五年に亘る攻防の末、?淵の盟(一〇〇四)を結び、二州放棄の代償として、宋より、毎年銀一〇萬兩、絹二〇萬匹なる莫大なる歳幣を得たり。契丹、これ以つて大いに西域と交易して巨富を致し、その最盛期を現出せり。
 すでにして契丹、宋帝國との關係安定し、府庫充滿し、其の鋭鋒の朝鮮半島に向かふは時を待つのみなりき。


 一〇〇九年高麗においては、顯宗、穆宗に代はりて立つ。  この間複雜なる事情あり。略述するに、病弱の穆宗立つに及び、生母献哀太后親政せり。太后の外戚金致陽權勢を振るひ、日夜太后と遊戯して憚るところ無し。太后遂に金致陽との間に一子を設け、その子を以つて王嗣と爲さんとし、太祖の王孫中唯一殘れる詢(後の顯宗)を幽閉す。
 西北都巡検使康兆、穆宗逝去の報に接し、詢を救はんとして兵を進む。途中逝去は誤報なるを知り、氣を喪ふも、諸將すでに止むべからざるを説き、進みて入京し、王を廢立し、やがてこれを弑せしむ。
 顯宗即位(一〇〇九)後直ちに契丹に使を遣はして之を告ぐるも、契丹聖宗、康兆が其の主を弑し、擅いままに顯宗を立てし罪を問はんとして高麗討伐の詔を下す。高麗、請和使を派遣して兵禍を免れんとせしも聞かず。契丹すでにして高麗侵攻を決し、唯、その口實を待つのみなりしならん。
 聖宗自ら四十萬の兵を率ゐ南下す。高麗軍善く戰ひ、勝敗ありしも、顯宗二年開京落ち、太廟、宮闕一時に灰燼に歸す。
 群臣降らんと議す。獨り姜邯賛曰く、衆寡敵せず當に其鋒を避け、徐に興復を期す可きのみと。遂に王を南行せしむ。丹兵問ふ。國王安くに在る。高麗使曰く、今や江南に向かひ在る所を知らずと。又遠近を問ふ。曰く太だ遠し幾萬里なるを知らずと。
 丹兵退く。高麗諸將これを撃ちて萬余級を斬る。契丹大軍を以って反撃するも、大雨に遇ひて馬匹、甲杖を失ひ、漸く鴨緑江を渡るを得て歸る。
 顯宗三年、契丹詔して王に親しく朝せしむ。王告ぐるに病を以つて朝する能はざるを以つてす。丹主怒り、詔して高麗の六城を取る。
 顯宗四年より、年として契丹の入寇せざるはなし。然れども高麗諸將よくこれを禦る。
 九年十二月、契丹の蕭遜寧十萬の兵を率ゐて來り犯す。王、平章事姜邯賛を以って上元帥となし、兵二十萬を師し、騎兵一万二千を選びて山谷中に伏せ、また、大縄を以つて牛皮に貫き城東の大川を塞ぎ以つてこれを待つ。賊至り、塞を決し、伏を発して、大いに之を敗る。十年正月契丹兵京に迫り、姜邯賛これを迎ふ。兩軍相持し、勝敗未だ決せず。忽ち風雨南より來たり旌旗北に指す。麗軍勝ちに乗じて奮撃し、屍野を蔽ひ、降兵數ふに勝ゆ可からず。生還する者僅かに數千人。丹兵の敗ること、此の時より甚だしきはなし。


 然れども、高麗、遂には契丹に敵す可からざるを能く知り、その後、表を奉じて、藩と稱し、朝貢し、高麗の社稷を全うせり。靖宗のときに至りて契丹の年號を用ゐ(一〇三八)、契丹、王を冊して高麗王となす。


 高麗軍、さすが武を以つて立ちし太祖王建の遺風を繼ぎて、新興の意氣高き契丹の入寇を能く禦げり。姜邯賛の大勝こそは、乙支文徳の隋軍撃滅と比すべき朝鮮民族の誇りなれ。


 然れども大國に隣接せる小國の常として、勝利の果実は、冊封、入貢による國家関係の安定なり。
 第二次大戰中の英雄的叙事詩たるソ芬戰争の末期、救國の英雄マンネルハイム將軍、和平協定受諾を主張して曰く。國軍未だ健在なり。國軍失はるれば、和平また無し、と。
 負くれば民族の滅亡、勝ちてやうやく屈辱的なる和平、これぞ弱小民族の運命なる。





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