岡崎久彦 - 朝鮮中世史散策 - 七 |
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岡崎久彦 其の七 高麗太祖契丹の使者を海島に流してより(九四二)、高麗成宗十二年(九九三)の契丹最初の入寇まで、半世紀にわたり高麗北邊は無事を保てり。 當時半島北辺には、女眞族居住せり。契丹、しばしば女眞を討伐して高麗の境に到れるも、高麗には兵を用ゐざりき。 ちなみに女眞はジュルチン族なり。女眞、後に勃興し、遂には遼を滅ぼして金帝國を建て宋を脅かすに到るも、當時未だ國家の體をなさず。契丹が生女眞と熟女眞に分けて呼びしこと、東南アジアの華僑、山岳地帶の原住民を生蕃、都市、村落居住者を熟蕃と呼びたるに等し。 一〇一九年に九州を襲ひし刀伊の賊は女眞なりき。女眞、朝鮮東岸でしばしば海賊行爲を犯し、遂にそれが九州にまで及びしものの如し。其の背後に、契丹の壓迫を遁れんとして高麗九州を窺ひしものか、或いは、當時頻りに高麗に入寇を繰り返へし、契丹と相呼應せる政治的動機ありやなしや、歴史は明らかにするを得ず。 當初、日本は高麗との共謀を疑ひしも、その後高麗、海戰において刀伊の賊を敗り、九州より拉致され居りし日本人二百餘名を奪還し、日本に送還せるを以て、朝廷、保護随伴せし高麗の使者の厚遇を令せり。 契丹最初の入寇は王建の孫、六代王成宗十二年(九九三)なり。契丹の聖宗、高麗は新羅を繼ぎし國にして、高句麗の舊地は契丹に属すと稱し、また、高麗が契丹に非ずして宋に朝貢せるを責めて出兵し、忽ちに、高麗の急派せし軍を破り先鋒の將を虜にせり。 この報に接し、群臣、契丹の望むところに從ひ、西京(平壌)以北の地を割きて降を乞ふべしと言ふ。成宗これに從ひて、西京の倉米を開いて百姓の取るに任せ、なほ餘りたる糧米は敵の手に落つるを恐れて、之を大同江に投ぜんとす。 中軍使徐熈固く之を諫め、契丹實は、高麗により後背より脅かさるるを恐る故にかかる脅迫の言動を以てするなりと喝破し、契丹との談判を主張し、王も遂にこれに從ふ。 徐熈、契丹と談判し、高句麗の故地の元來高麗に属するを辯じ、宋と絶ち契丹の正朔を奉ずる條件を以ちて和睦し、かへりて、西京以北鴨緑江に至る女眞の地は契丹への入貢の經路として高麗の領とするを得たり。 徐熈の判斷まさに正鵠を射たるものあり。契丹、新興宋帝國と優劣未だ決せざるの状況にあり、高句麗の故地取得は其の眞に意圖するところに非ず。高麗をして入貢せしめ、後顧の患ひを斷つが其の欲するところなりき。 高麗、太祖没後、四代王光宗に至るまで、短命の王多く、また、舊臣の間、被讒、復讐による殺戮相次ぎ、冤罪によりて害に遇ふものの數夥ただしく、王建の孫景宗即位時、王建の舊臣の存するもの僅かに四十余人に過ぎずと言ふ。鎌倉幕府初期の讒言粛清を彷彿とさせるものあり。 かくの如く、建國の功臣の多くを失ひたりとは言へど、創業時の士気未だ高かりしものありしならん。よく徐熈の如き名臣を得て其の疆域を全うせり。 ▼「粤王寓」表紙へ戻る ▼「文語の苑」表紙へ戻る |