岡崎久彦 - 朝鮮中世史散策 - 六 |
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岡崎久彦 其の六 高麗、後百濟を滅ぼすや日本との修交に意を用ゐ、太祖二十年、朱雀天皇承平八年、高麗使を日本に遣はす。朝廷、新羅以來朝鮮の變節常無きを以て其の入貢を許さず。高麗重ねて入貢を請ふ。朝廷太宰府に令して、使者をけ、唯通商のみ新羅の例に準じて禁ぜざることを諭す。 高麗朝鮮半島統一せりと雖も、外に事を構へ意圖は無く、日本また平將門、藤原純友の亂忙殺されし折にてもあり、兩國の關係は、すでに、古代のコスモポリタン世界と遠く隔たり、中世的相互無關心の時代に入りたるなり。 ただし高麗史を通じての難問は北辺列強との関係なりき。 高麗による半島統一後の初期治世は、我が國においては平安初期の地方反亂漸く治まり、文化の興隆を誇る平安の攝關政治の始まりと期を一にし、ここにもまた日韓史の共通點見出すこと可能なるも、大いなる差異は北邊の脅威の存在にして、日韓の歴史の岐路またここに存す。 太祖二十五年、契丹は高麗に使ひを遣はして(らくだ)五十匹を贈りしも、太祖、使者随員三十餘人を海島に流し、らくだは橋下に繋ぎ置きしところ皆餓死せり。契丹かつて渤海と連和しながら、忽ちに盟に背むきてこれを滅ぼせし無道なる國なりとせしがその故なり。 渤海滅亡後、其の國人、高麗を頼りて來附するもの多かりしと言ふ。そもそも渤海は古代高句麗の末裔にして、わが朝にも、高句麗、百濟の祖たる古代扶余國の親縁としての交はりを求めしことあり、この渤海の滅亡に、また、東アジア古代史の最後の閉幕を見る。 高麗また高句麗の後裔を以つて自ら任ずる處あり。朝鮮太祖、義を重んずる武人として、渤海を滅ぼせし契丹と俄かに和親を結ぶべくも無かりしこと、當然なるも、高麗にしてかくも尊大に振舞ふを許せし背後には、當時の東アジアの事情あり。 大唐帝国滅亡後、中國本土、五代十國の亂世と爲り、高麗と境を接する契丹もまた渤海を併せたるばかりにして、かつ、南方中國本土との應接に忙しく、朝鮮半島は暫く北邊との関係に意を用うるの要を省き得たり。 新羅、半島統一後、金春秋に太宗の諱を用うるに際して唐より咎めらるるところありしが、王建、太祖と號するに何の憚るところ無かりしは、かかる情勢によるものなり。 然れどもその後、契丹の興隆著しく、中國大陸においては燕雲十六州を収め、やがて大遼と稱するに到りて、高麗朝前半は終始契丹との對應に追はるることとなれり。 ちなみにロシア語において中國を意味する語はキタイ、すなはち契丹なり。當時のキタイ帝國の隆盛、これを以つて知るべし。 ▼「粤王寓」表紙へ戻る ▼「文語の苑」表紙へ戻る |