岡崎久彦 - 朝鮮中世史散策 - 五 |
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岡崎久彦 其の五 高麗太祖王建、即位と共に審穀使を置きて、水旱飢饉に備へしめ、田制を正して賦課を輕くし、或いは内庫の布帛をいて人の奴婢となるものを救ひ、庶民大いに悦服し、その徳政を稱へたり。 太祖、佛教を尊崇し、即位の冬、大いに八關會を催したり。八關會はその後例年の國家的大儀式となれり。その盛大なること、一千年を經て、朝鮮戰爭まで、開城において行はれし灌佛會においてその一斑を見られたりと言ふ。 寺院の建立また盛んにして、都城内における十大寺を始め、塔廟の補修等は枚擧に暇なし。 地方に建設せられたる内最も著名なるは、後百濟軍撃破の後、開國泰平を記念して建立せし、忠南の開泰寺にして、太祖、親しく願文を手書し、佛力の加護を謝すると共に戰没將士の靈を祀らしめたり。 太祖薨去に際して、大臣に親授したりと言ふ太祖訓要十條あり。訓要は、高麗君臣の必ず則るべき大典なりきと、一千年に亘り信じられしも、日本時代の今西博士の精細なる研究により、僞書なることほぼ明らかとなりたるなり。 その八に曰く、「車?以南、公州江外は、山形地勢並びに背逆す。其の人心も亦然り。彼の地の者を登用して國政を秉らしむること勿れ。」 韓國において今なほ信ぜられる風水の説によるものならん。中國太古の天地動亂に際して、それまで平らかなりし大地傾きて、西高東低となりしと言ふ傳説あり。百濟の地東高西低なるを以つて背逆と呼びしか。なほ、これ余が素人論にして讀者の信じるを要せず。この説を然りとせば、高麗の中心たる開京付近の地勢も亦背逆す。 ともあれ、太祖訓要、おそらくは第八代顯宗時、新羅系統が顯勢を得たる時代の僞作と推定さる。今西博士の論、文獻の精密なる考證の結果ならんも、常識を以つてしても、隱忍自重、民心の融和を以ちて天下を取りし、現實主義的なる武將たる王建の言と信じ難きものあり。 また、この説によらずとも、高麗建國後、高麗の貴族として榮えし新羅王族と、舊後百濟人の扱ひとの間に懸隔在りしは一目瞭然たり。 新羅百濟の深讐の淵源は、朝鮮古代史散策に折々記述せし通りなり。兩者確執の歴史には、新羅、百濟の覊絆を脱して建國せし時以來の經緯あり。その後干戈を交へしこと幾十たびなりしか、數ふるに暇あらず。 新羅の半島統一後、新羅、唐の援けを借りて統一を達成せし恩義に背むきて、敢へて強大なる唐帝国と事を構へしは、唐、占領政策として百濟の舊支配層を優遇せんとの意圖ありしにあり。當時既に新羅は、後世百濟の復興して新羅に仇を報ぜんとするを惧れたるなり。 後三國に到りて、甄萱、百濟義慈王の報復を呼號して、新羅の宮廷を犯せし時より、兩者の舊怨猜疑はもはや識者の竊かに抱けるところを超え、公然のこととなりぬ。 一九八〇年光州事件に際し、慶昌道の兵士、全羅道の婦女に暴行せしとの噂、暴動擴大の一因となりしと言ふ。 思へば、百済義慈王滅びて(六六〇)より、金大中の大統領就任(一九九八)まで、實に千三百年余に亘り百濟系人士は中央權力より疎外されたるなり。太祖訓要、僞書なりとは言へ、其の意圖するところ、高麗、李朝、現代韓國を通じて、ほぼ千年に亘り能く墨守されたりと言ふべし。 ▼「粤王寓」表紙へ戻る ▼「文語の苑」表紙へ戻る |