岡崎久彦 - 朝鮮中世史散策 - 四 |
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岡崎久彦 其の四 太祖王建、高麗朝を建てしは九一八年なるも、一代の英雄甄萱の下の後百濟の力強勢にして、時々の合戰にそれぞれ勝敗あり、容易には雌雄を決するを得ざりき。 その間王建、和戰いづれの場合にも時機を待ちて滿を持せしこと、後世史家の徳川家康になぞらへしもまたむべなるかな。 高麗太祖十八年(九三五年)の年、後百濟王甄萱の長子神剣、父が第四子金剛を愛して後嗣とせんの意を知り、先づ父を金山の佛寺に幽閉し、次いで金剛を殺害せり。甄萱、守衛の隙を竊みて走り、積年の怨みを捨てて太祖に見(まみ)えんことを請ひ、太祖、海路より甄萱を王京に迎へ、優禮を盡くせり。 他方新羅、高麗後百濟に蠶食せられ、尚命脈を保てしは、ひとへに、太祖が新羅を擁して後百濟に對抗するの政略を維持せしにあり。 すでにして、老雄甄萱は高麗に降り、神剣後を繼ぐといへども到底高麗と覇を爭ふの器にあらず。新羅の末主敬順王、もはや社稷の保つべからざるを知り、國を擧げて太祖に降らんとせり。 王子曰く、「あに一千年の社稷を以て輕く人に與ふべけんや」と。王曰く「孤危此の如し。無辜の民をして肝腦地に塗れしむるに至るは吾が忍ぶ能はざる所なり」と。遂に降を太祖に請ふ。王子哭泣し、巌によりて屋となし、麻衣草食以てその身を終ゆ。 王百僚を率ゐて王都より發し、太祖に歸す。香車寶馬三十餘里に連なり、觀る者堵の如し。太祖郊に出でてこれを迎へ、宮殿を賜ひ、長女樂浪公主を以てこれに妻はす。これを封じて正承公となし、位、太子の上に在り。新羅を改めて慶州と爲し、以て公の食邑と爲す。其の從者それぞれに官職を授けられ、公の子孫、永く高麗の名門として残れり。 新羅千年の社稷に對する王建の恭謙かくの如し。 西郷隆盛、江戸城明け渡しの式に臨むに際し、當時の作法として、當然佩刀を脱するの要あり。然れどもまだ丸腰は危険なる時期なり。西郷は逡巡の上佩刀を抱いて上がりしと言ふ。王師を率ゐての占領軍なれば、堂々佩刀を帯びるに何の妨げもなき時なれど、西郷恭謙にして殿中のしきたりを重んぜしなり。見る者をして徳川の幕臣といへども、西郷を慕ひしめしこと想像に餘りあり。王建の功業また彼の恭謙に負ふところ大なるものありしならん。 翌十九年、太祖、大軍を発して南下して神剣の軍を大いに破る。神剣力盡きて降る。甄萱、太祖に請ふて南征の軍中にありしも、百濟軍の敗るるを見て、苦惱の極、病を發し、現地の佛寺に卒したりと言ふ。稀世の英雄末路の眞情哀れなり。 ここに太祖、齢六十歳、半島統一の業を達せり。 時恰も、晋の高祖、唐を滅ぼして天福と建元せし年なり、翌年高麗、晋に朝貢し、晋は太祖を高麗国王に封じたり。 ▼「粤王寓」表紙へ戻る ▼「文語の苑」表紙へ戻る |