岡崎久彦 - 朝鮮中世史散策 - 三
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 岡崎久彦


  其の三 



 高麗建國(九一八)に際し、王建詔りして三年の租役を免じ、弓裔の暴政に疲弊せし民を救ひ、民心を収攬す。


 後百濟國王甄萱使節を遣はし、禮を厚くして高麗建國を賀し、新羅王また使ひを遣はす。王建もと叛賊弓裔の一部將なれば、新羅王より交聘を修するは冠履轉倒の嫌ひあるも、以つて新羅の窮状察すべし。


 ここに三國再び鼎立の形を成すも、實情は麗濟間の半島覇權爭ひにして、新羅王朝は高麗の援けを借りて、僅かにその余喘を保たんとせしなり。


 果然、甄萱歩騎一万を率ゐて大耶城を攻陷するに及んで新羅王王建の援けを求め、王建兵を出してこれを救ひ、ここに麗濟間に自ずから隙生ず。


 新羅自ら保つべからざるを知り、新羅の國相謀りて王建を新羅國都に誘引せんとす。是に於いて、甄萱王建に先んじられんことを惧れ、自ら兵を率ゐ、進んで新羅國都に迫れリ。新羅王急を高麗に告げ援を求め、王建兵一萬を急派せしも、援兵未だ到らざるに、甄萱王都に侵入せり。


 斯かる危急の時に當りて、新羅王は妃嬪宗戚と鮑石亭に遊び、置酒娯楽し、敵兵忽ち來たりて爲す所を知らず。甄萱自ら王妃を凌辱し、部下の兵また暴行を恣にす。ここにおいて、二百六十七年を隔てる百濟滅亡の際、百濟王朝の美姫大王浦の岩上より落花の如く身を投ぜし、落花岩の故事の深讐を報ぜり。


 王建大いに怒り、親しく精兵を率ゐて進むも、甄萱の兵に敗れ、功臣大将を失ひ、身を以つて脱る。


 九三〇年、關が原の一戰とも云ふべき瓶山の戦ひに兩雄相見え、王建大捷を博し、新羅王都に到るも高麗の兵風紀嚴正にして秋毫も犯さず、ここに、他日新羅の高麗に併合せらるる素地既に成れリ。



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