岡崎久彦 - 朝鮮中世史散策 - 二
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 岡崎久彦


  其の二 


 新羅第五十一代眞聖女王、美少年を侍らせて寵愛して要職を授け、紀綱壞弛し、國内諸州貢賦を輸さず、盗賊諸方に蜂起して、既にして國家の態をなさざりき。

 眞聖女王六年(八九二年)新羅王族の一人と稱せらる弓裔なる者、北方に盤踞せし賊師梁吉の下に投ず。弓裔士卒と甘苦を同じうして大いに部下の信望を集め、これを嫉視して襲ひし、梁吉の兵を逆に破り、自立す。これ眞聖女王の末年なり。

弓裔常に人に語つて曰く、新羅は兵を唐に請ひ高句麗を滅ぼせリ。吾必ず高句麗の爲に讐を報ぜんと。嘗て寺壁の新羅王の画像を見、剣を抜きて之を撃てり。平壌を併せ自ら後高句麗王と稱せり。新羅の金性に代はるに水性を以つてし、年號を水徳萬歳と稱し、国号を泰封とせり。(九一一年)

 舊百濟の地に於いては、眞聖女王六年、新羅西南海の戍將たりし甄萱叛し、全羅慶尚の諸郡を降し、自立して國號を後百濟と稱す(九〇〇年)。人民之を迎へ勞す。甄萱謂つて曰く、三國の始め馬韓先づ起こり辰辨之に從ふ。新羅唐と合して百濟六百年の社稷を滅ぼせり。今予不徳と雖も義慈王の宿憤を雪がんとすと。ここに朝鮮半島は再び三国鼎立の樣を呈せり。

 時に唐國内大いに亂れて、唐の威勢既になく、大唐勃興と共に三國統一せし新羅も、唐の衰退と時を同じくして末路を迎へたり。 

 その後弓裔は、矯傲の餘り言行常軌を佚し、自ら彌勒佛と稱し、其の子を菩薩となし、出づるに常に白馬に騎り、童男童女をして幡蓋香花を持つて前導せしめ、僧二百人をして梵唄して隨從せしめたり。且其の性頗る多疑急怒、彼の部下及び人民の無辜にして害に遭ふ者日に幾人なるを知らず、遂には己の妻子を殺戮するに至れり。

 弓裔の將王建、既に屡著功を立て、弓裔亦常に優遇して侍中となすも、王建奇禍の其の身に至らんことを慮り、請ふて羅州に鎮し、又は水軍を率ゐて南方の經略に從事して、常に謹愼抑遜、弓裔の毒牙を避くるに力めり。

 九一八年弓裔の部下四將密に謀りて、切に推戴の意を述べて大事の決行を勸むるも、王建拒んで許さず。時に王建夫人柳氏その議を聞き、仁を以ちて不仁を伐つは古よりして然りとして、帳中より出でて自ら甲冑を提げて王建に進めたれば、彼遂に意を決し、義旗を擧ぐ。これと知りて來隨する者數を知らず。弓裔逃れて民の殺すところとなる。

 同年王建弓裔の後を襲ひて王位に上り、國を高麗と號し、天授と改元す。これ高麗の太祖なり。



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