岡崎久彦 - 朝鮮中世史散策 - 十七
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岡崎久彦


 
辛禑王蒙塵し、崔瑩亡き後、民心自づから、李成桂に靡き、高麗朝を支ふるの朝臣曉天の星如くなりし中にあつて、忠臣義士の鑑として、長く朝鮮史に名を留めしは、鄭夢周なり。
 夢周、號して圃隱、宋儒性理の學を精研して、東方性理學の祖なり。李朝五百年の官學たる朱子學は夢周を源とす。
 初め成桂の幕下にありしが、成桂と共に廟堂に立ち、國家の大事を處し大疑を決して、聲色を動かさず、左酬右答して、皆その當に適ひ、王佐の才と稱せらる。
 崔瑩、李成桂の武事を補翼せるに對して、文事を輔弼し、倭寇に際しては、博多に使ひして、古今交隣の利害を説く。時に日本は南北騷亂にして、その根絶の力無けれども、鎭西探題今川貞世厚くこれを待し、翌年俘虜數百人を還したり 。


 
時に成桂の威徳日に盛んにして、中外心を歸し、朝臣中に推戴の動きあるを知り、その順逆を明らかにして、罪状を論じて、典刑を正さんとす。
 一夕、夢周、李成桂の邸を訪れし歸途、成桂の第五子李芳遠この機を逸すべからずと、善竹橋において、夢周を撃殺し、その首を市にさらす。成桂震怒して曰く、我が家、素より忠孝を以つて聞こゆ。汝ら擅(ほしいまま)に大臣を殺す、國人我を以つて知らずとなさむやと。芳遠、坐して亡ぶるを待たざるの所以を説く。
 ここにおいて、李黨、その餘勢を驅りて、李成桂に反對するもの悉く肅清す。夢周死して三ヶ月にして高麗亡ぶ。社稷の存亡、實に夢周一人に係りしなり。
 李成桂、王を廢して即位し天下に號令す。文武兩班の中、文班の多くはあくまでも正統性の理義を重んじ、高麗王氏の後を存せむとし、成桂、百方收攬の策を講じたるも聞かず。かつて鄭夢周に依りて程朱の學に養はれし忠臣七十餘人は、李朝の臣たるを肯ぜず、松都外に遁避して出でず、時人これを杜門洞と云ふ。


 
高麗末期、王は蒙古の頤使に甘んじ、宮中の綱紀また頽廢すと雖も、その臣子の中に、崔瑩、李成桂の如き名臣、鄭夢周の如き忠臣を生むの士氣の高さありしなり。高麗四百年の社稷、終りに當たりても、なほ、青史にその光芒を放てり。
 惜しむらくは、松の都、開城は、今や北朝鮮の支配下にあり昔を偲ぶのよすがも無し。

 

 追記 眞珠灣囘軍(引用部表記は文語本文の表記に統一)
 日經新聞所載の近藤道生氏の『私の履歴書』に次の記載あり。
 「開戰の月の初め、聯合艦隊の山本五十六司令長官は眞珠灣に迫る我が航空艦隊を引き返させるためのご聖斷を得ようと、ひそかに動いてゐたことを示唆する記事を、最近になつて讀んだ。しかし、勝(海舟。この少し前のパラグラフに、和宮やパークスを味方にして西郷が身動き取らしめず、江戸城無血開城に持ち込みたる旨の記述あり)にも似たる長官の思ひは、昭和天皇のお耳に屆く直前に軍令部と側近に握りつぶされてしまつたやうだ。」
 そもそも眞珠灣奇襲は、成功の確率低しとの軍令部の反對を山本が押し切り強行せしものなり。そを山本が押し止めんとせりとは、奇異の感無きにしも非ず。
 この説の眞否は知らず。當時の状況より考ふるにおそらくは後世の捏造の可能性高し。ただ、山本五十六のフアンなる余としては、これを信じたき想ひあり。
 しかり、いつたん戰爭と決まらば勝つために最善の方法を選ぶと、對米戰爭の日本の破滅に至るを豫想し最後までこれを押し止めんとすると、兩者相矛盾するものにあらず。
 もし、山本の策實現したりとせば、眞珠灣囘軍として、大明國との對決を避けし鴨緑囘軍に比すべき、日本の命運を決する歴史的大決斷とぞならまし。
 



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