岡崎久彦 - 朝鮮中世史散策 - 十七
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岡崎久彦


 
恭愍王七年、一三五八年、明軍、元都を陥れ、元順帝は北方に遁(のが)る。
 
高麗の廷臣中、親明、親元の二派間に軋轢あり。恭愍王は親明なりしも、弑せられ、王禑立つに及びて、排明の勢ひ強く、鉄嶺以北を遼東に帰せしめんとするに到りて、遼東攻撃の議発せり。
 
李成桂、元来新興の明に依るを以って得策とするの議なりしが、四つの不可を以って北征に反対せり。曰く、一、小を以って大に逆らふ。二、夏月兵を発す。秋を待たば大軍食足る。三、国を挙げて遠征せば、倭その虚に乗ぜん。四、暑雨に当たり弓膠解け大軍疾疫せん、と。王、いったんは頗る然りとせしも、重臣崔瑩の策を容れて出師を命ず。
 
李成桂、軍を率ゐて鴨緑江を渡り、江中の威化島に兵を停めて諸将に謂ひて曰く、もし上国の境を犯し、罪を獲ば、宗社生民の禍に至らん、何ぞ卿等と共に王に見(まみ)えて、親しく禍福を論じ、君側の悪を除き、生霊を安んぜざるべけんやと。 王、令を発して李成桂の回軍を阻まんとし、府庫の金帛によりて兵を募りしも、数十人を得たるも皆市井奴隸の徒なり。王、江華に逃れ、その子、辛昌立つ。
 
李成桂入城して、崔瑩を求めて、曰く、かかる事変は本意に非ず、然れども、遼東を攻むれば、国家寧からず、人民労困す。故に已むを得ざるなりと。相対して泣く。
 
崔瑩また剛直忠清、大小百戦、向かふ所功あり、将相となること三十余年、大体を持して細理を究めず、民の一毫も取らざりしかば、人皆その清廉に服せり。遠征に固執せしは、ただ、祖宗の地を失ふに忍びざりしのみ。その刑に臨みて辞色変ぜず、死するの日、都人市を罷め、街童巷婦に至るまで皆流涕せりといふ。 

 之即ち、朝鮮史を決せし鴨緑回軍なり。
 
李成桂、王命に背むきて兵を回す。何ぞや。
 
後世より見れば、李成桂既に高麗王位簒奪の意図ありしを疑はしむ。然れども朝鮮史のこの時点において、高麗朝転覆を企図せし証し皆無なり。もとより朝鮮史、朝鮮王朝太祖の人徳を称ふるに余念なく、成桂の無欲潔白を記するのみなるも、事実、成桂、回軍後崔瑩と相擁して泣き、その後、辛昌王、恭譲王の即位に何の異もはさまざりき。回軍の時点において簒奪の意図ありとは考へられず。
 
しからば何ぞや。新興明朝の実力を知り、これに敵対せば、朝鮮の宗社生民の禍測り知るべからざるものあるを知ればなり。
 
世界史上これに較ぶるに足る例なし。譬へて言はば、ハワイ奇襲部隊司令官、南雲中将、奇襲直前に思へらく、「もし奇襲成功せば、孤立主義なる米国の世論は一転して対日報復に徹し、遂には、東京大空襲、原爆投下、ソ連の参戦、長期的占領に至り、民族の塗炭の苦しみ想像するにに堪へざるものあり。如かず、ここに軍を回すに」と。
 
もとより両者の立場には違ひあり、同日に論ずべからず。 大明との一戦は当初よりその帰趨予断を許さざりしものありしに対して、ハワイ奇襲は戦術的には勝算ありき。また、南雲中将は一介の司令官に過ぎざるも、李成桂は既に朝鮮においてその勢威並ぶものなく、その行動、発言が高麗廷において重きをなすこと疑ひなかりき。更に事の是非を論ずるに及んでは、鉄嶺(遼東半島の脊梁山脈)以北の明による領有宣言とハル・ノートでは、比較し得べくもあらず。
 
ただ、もし李成桂の武勇によりて、緒戦勝ちを得たりとするも、その後の朝鮮半島の命運、戦慄すべきものあり。唐に逆らひて民族滅亡、離散せし高句麗、元の圧制に苦しみし高麗朝の再現は必至なりしならん。
 
李朝前期、文禄慶長の役に至るまで二百余年の平和の中、朝鮮人民の鼓腹撃壌を想ふにつけ、鴨緑回軍の決断、朝鮮の蒼生を救ひしこと世界史上稀なる決断と言ふべきなり。
 



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