岡崎久彦 - 朝鮮中世史散策 - 十六 |
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岡崎久彦 恭愍王七年、一三五八年、明軍、元都を陥れ、元順帝は北方に遁(のが)る。 高麗の廷臣中、親明、親元の二派間に軋轢あり。恭愍王は親明なりしも、弑せられ、王禑立つに及びて、排明の勢ひ強く、鉄嶺以北を遼東に帰せしめんとするに到りて、遼東攻撃の議発せり。 李成桂、元来新興の明に依るを以って得策とするの議なりしが、四つの不可を以って北征に反対せり。曰く、一、小を以って大に逆らふ。二、夏月兵を発す。秋を待たば大軍食足る。三、国を挙げて遠征せば、倭その虚に乗ぜん。四、暑雨に当たり弓膠解け大軍疾疫せん、と。王、いったんは頗る然りとせしも、重臣崔瑩の策を容れて出師を命ず。 李成桂、軍を率ゐて鴨緑江を渡り、江中の威化島に兵を停めて諸将に謂ひて曰く、もし上国の境を犯し、罪を獲ば、宗社生民の禍に至らん、何ぞ卿等と共に王に見(まみ)えて、親しく禍福を論じ、君側の悪を除き、生霊を安んぜざるべけんやと。 王、令を発して李成桂の回軍を阻まんとし、府庫の金帛によりて兵を募りしも、数十人を得たるも皆市井奴隸の徒なり。王、江華に逃れ、その子、辛昌立つ。 李成桂入城して、崔瑩を求めて、曰く、かかる事変は本意に非ず、然れども、遼東を攻むれば、国家寧からず、人民労困す。故に已むを得ざるなりと。相対して泣く。 崔瑩また剛直忠清、大小百戦、向かふ所功あり、将相となること三十余年、大体を持して細理を究めず、民の一毫も取らざりしかば、人皆その清廉に服せり。遠征に固執せしは、ただ、祖宗の地を失ふに忍びざりしのみ。その刑に臨みて辞色変ぜず、死するの日、都人市を罷め、街童巷婦に至るまで皆流涕せりといふ。 之即ち、朝鮮史を決せし鴨緑回軍なり。 |