岡崎久彦 - 朝鮮中世史散策 - 十一
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 岡崎久彦


  其の十一



 崔忠獻、李義皎を誅するや、王に封事十條を上りしが、その多くは時弊に適中して、王の反省を促すに足るべきもの少なく無かりしと言ふ。
 朝鮮史もとより文官の筆によるものにして、鎌倉時代の善政を稱ふる日本史と異なり、武官政治時代に關する記述は、深謀遠慮を奸詐と呼び、勇猛を暴虐と言ひ、武人に對する誹謗中傷を極む。かかる史觀の下に、武人に對する尊敬の念生まれざりしは、また、當然のことなり。この種の偏見こそ、武家政治の朝鮮半島に根づかざりし所以の一なれ。
 しかれども、崔忠獻の事績を追ふに、その才幹、源頼朝に優るとも劣らざるものあるを見る。右の封事十條を見るも明らかなり。
 崔忠獻、弟の忠粹と共に事を起こし、ともに廟堂において顯職人臣を極めしが、忠粹は己れの女を以て太子に配せんとし、王に強請せしを忠獻止めんとして、忽ち兄弟に不和生じ、互いに黨を集めて相争ひ、忠粹敗れて斬殺さる。源の義經、兄の許しを得ずして、朝廷の衣冠を帯して咎められ、遂に追討されしを彷彿とせしむ。
 また、大將軍朴俊文、私第を忠獻の家側に構へて、諸勇士と交はりを結び、常に忠獻の羽翼たりしが、忠獻の長子崔禹と不和にして、宿將と語り、忠獻没後は次子を立てんと策す。忠獻夙に之を察し,崔禹に知らしめ置きしため,謀に加はりし諸將皆肅清せらる。
 忠獻の用意周到なる、秀頼の前途を一片の誓約文書に托せし秀吉との差歴然たり。
 若し秀吉にして、腹心の石田、加藤を招き結束させて、詐りて家康を除くの計を授け置きたりしかば、その後の日本政治の歸趨如何なりしか、測り知られざるものあり。源頼朝、また、何故に、その死後權力の北條氏の手に落つるを防ぐの策を施さざりしか。
 我が國におきては、人間に對する信頼の念篤き故か。權力への執着薄き故か。政治環境ひいては、國民性の差、日韓比較して歴史を論ずれば、日本歴史のみを論じても見えざる問題點多々浮上して、興味盡きざるものあり。


 かくして内外の大權悉く手中にせし崔禹、國政を秉るや、大いに人心収攬に努め、先づ父の貯めし金銀珍寶を王に獻じ、父の奪取せる公私の田民を悉く舊主に還へし、また、多く寒士を抜擢して官に補任せり。他方、弟を洪州に流し、それが亂を作すに及んで兵を遣はし、捉へて殺したり。
 高宗十二年(一二二五)禹は政房を私第に置き、百官、皆私第に詣でて政事を上り、禹は座して之を受けたり。之を崔幕府の創設と言ふべきか。時に,我が國においては、承久の亂(一二二一)によりて武家の専制固まりし四年の後なり。


 崔幕府、四代にして滅び、王政復古す。明治維新まで六世紀半、王政復古なかりし日本と對照をなせり。その間高麗においては蒙古の襲來、占領なる特殊事情ありしも、それなくしても、高麗の武人政治の到底繼續し得ざりしこと、推測に難からず。


 再び『隣の国で考えたこと』を繙くに、その観察、また、正鵠を射をれり。
 そこに記する如く、最大の理由は、關東なるフロンティアーの存在なり。
 朝鮮においては、首都の占める地位極めて大きく、全半島の富を首都に集めて、政治はもつぱらその富の爭奪にあり、一旦首都において力を失へば、半島全土において、隠遁して生を養うの一片の地もなく、一族の權力、富忽ちに褫奪さる。
 我が國におきては、政府中央における權力闘爭の朝鮮におけるが如く激烈酷薄ならざりし所以もここにあらんか。
 日本におきては、關東には、その生産力、京畿地方全體に匹敵する大平野あり。奈良時代までは開發中のフロンティアーなりしも、一旦その開發の進むや、平の將門の如く、獨立王国の存在をも許す經濟的基盤を擁せり。將門後も益々開發は進み、京畿に對抗し得る實力を涵養せしならん。
 『隣の国で考えたこと』の指摘せし如く、日本に武家政治確立せし分岐點は、富士川の合戰後、頼朝の鎌倉に留まりたるにあり。時に關東の土豪ら頼朝に言ひて曰く「なんでう朝家のことのみ、見苦しく思ふぞ。ただ、坂東にかくてあらんに、誰か引きはたらかさん(誰も手をつけられまい)」と。
 若し頼朝にして、京に上り清盛の太政大臣の後を繼ぎしかば、源家の宮廷化せしこと、鎌倉に殘りし實朝の例より見ても明らかなり。また、そののち、常に、宮廷及び藤原氏の陰謀により權力失墜の危ふきに置かれしこと想像にあまりあり。
 かく考ふれば、我が國に武家政治、封建制度定着せし所以は先ず第一にその地理的條件にあり。それに加へて、北條泰時、時頼の如き名君相次ぎしためもあらんも、それまた、偶然にあらざりしならん。
 武家、政治の實権を握りたりとは言へ、正統性は依然として朝廷にあり、王政復古は常に潜在的選擇肢なりき。極言せば、王政以外の政體の唯一の正統性は善政にありき。
 京都には、武家政治にいささかの瑕瑾あらば、直ちにこれを咎めて、追討の院宣を下さんと、虎視眈々たる朝廷ありき。現に、特に失政と言ふほどのものは無く、単に凡庸たりしに過ぎざる高時に至りて、鎌倉幕府は覆滅せられたり。
 かかるチェックス・アンド・バランスの制度、鎌倉全期を通じて内在せし事こそ、後々にまで善政を謳はれ、武家政治の規範となりし鎌倉政治を生みし源にして、我が國歴史の幸運と言ふべきなり。








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