岡崎久彦 - 朝鮮中世史散策 - 十
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 岡崎久彦


  其の十



 余、朝鮮中世史を紹介するに當り、日韓史の岐路をなす武人の専横のくだりに至りて、書きなづめり。
 余かつて、『隣の國で考えたこと』なる著書においてその時代を論ぜしことあり、今となりてこれを再讀するに、それにつけ加ふること皆無なればなり。單に現代文を文語文に轉換するのみの作業に如何なる意味ありや、と自ら問ふて、逡巡するのみ。


 余、舊著において述べしところ、その一は、共に唐文明の子なる日韓の歴史の並行發展せしこと、符節を合はするが如きなりしことなり。
 すなはち、麗史における、文官專横に對する武人の反撥、やがては武人の專權に至る過程の、我が國中世史における平氏の勃興と專横、鎌倉幕府の成立の歴史と、ほとんど同時並行するが如き現象なりしことなり。
 その二は、日韓の歴史のかかる表面的並行性にも關はらず、日韓が長き中世的疎遠の時期を經て、近世近代に再び相見(まみ)えたるとき、兩國、ほとんど異質の國家となりし事實にして、その淵源はこの時期にありしことなり。
 すなはち、日本においては、武家政治確立し、武士のみならず庶民に至るまでの、生活樣式、道徳規範に影響を及ぼしたるに對し、朝鮮半島におきては、科擧による貴族政治復權し、その體勢、傳統の二十世紀まで殘りしことなり。


 余、そのことをここに再び説くの意なし。
 むしろ高麗史の原典に隨ひて、事實の經過を敍述せん。
 高麗史における武官の文官に對する怨恨には數十年の經緯はあるも、そが爆發せし端緒は毅宗の時にあり。
 高麗仁宗、長男の不敏を知りて太子を易へむとす。忠臣鄭襲明力を盡くして護り、太子、位に即くを得たり、これを毅宗となす。
 毅宗はじめは襲明を憚りて、敢へて恣(ほしいまま)の動きはせざりしが、襲明讒に遇ひて、自ら藥を仰ぎて死せりより、荒淫遊幸を縱(ほしいまま)にし、離宮を造り、名花怪石を聚めて、酣歌流連の樂をなし、嬖幸諸臣と詩を賦して唱和し、また、佛道兩教を崇奉し、歳費頗る多く、佞幸の輩、民に剥して供給すれどもなほ足らず、一人の之を諌止するものなく、百官、文藻詞華を以て進み、諂諛を事とし、寵を恃(たの)みて武士を蔑視し、兵勇皆俸禄を減ぜられて食を得ず、往々凍死する者あるに至る。
 毅宗、一日普賢院に幸す。大將軍鄭仲夫、素(もと)より不軌の志あり、ここに至りて亂を作し、先ず扈從の文官を殺し、兵を遣して、都に在る文官を悉く殺さしめ、およそ文冠を戴くものは、皆害に遭はざるなく、死屍積んで山の如し。遂に、王に逼りて巨濟に放ち、王弟を迎へて位に即かしむ。之を明宗となす(一一七〇)、平清盛太政大臣となりし年(一一六七)の三年後なり。
 前王を擁し、武臣を討伐せんとの擧兵各地に起れども悉く敗れ、その都度内應を疑はれし文官の肅清あり、遂には、三京(西京、東京、南京)、四都護(安東、安南、安西、安北)八牧(廣、忠、清、晉、尚、羅、公、黄、各州)より、郡縣館驛の任に至るまで、皆武人を用うるに至る。當時、書を讀み、文を學ばんとするものは、僧侶に就きて之を習ふといへる有樣にて、文教はいよいよ衰頽せり。
 王、元來柔懦にして燕安に溺れ、鄭仲夫は跋扈して貪婪厭くことなし。諸將之を除きし後も、逆臣、叛將踵を接して起れり。木曾義仲入京(一一八三)の頃なり。
 中にも李義皎は前王を虐殺して、大いに笑ひ、淵中に投ぜるほどの暴虐の將にして、父子ともに貪虐をほしいままにす。路に美婦人に遇へば從者をして擁去せしめ、汚して後に已む。
 ここに崔忠獻、李義皎を始めとする多数の朝臣を誅し、王を幽し、王弟を迎へて位に即かしむ、是を神宗とす(一一九六)。
 これ崔家四代の武家政権の始めなり。源頼朝、征夷大將軍に任じられし(一一九二)年の四年後なり。






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