岡崎久彦 - 朝鮮中世史散策 - 一
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 岡崎久彦


  其の一 序



 統一新羅王朝の始祖武烈王、文武王の後を繼ぎし神文王(六八一〜 )偃武の治を制きて以来百年、大唐長安、日本奈良と其の妍を競ひし慶州を中心に榮えし古代新羅は第三十六代恵恭王( ―七八〇)以降急速に衰ふ。 

 古來新羅は、眞骨(王族)の會議たる和白によりて王位繼承者を決定せり。

 然れども武烈王金春秋の大功によりその後八代に亙りて武烈王系王位を獨占せしが、恵恭王、年僅か八歳にて即位し、壮なるに及んで聲色に溺れ、巡遊度なく、綱紀紊亂、人心離反せり。ここに亂起こりて亂兵王を弑し、奈忽王十世の孫宣徳王立てり。

 その後九代六十年間、弑殺されし王權者五人に及ぶ王位爭奪の爭ひを專らにし、その後約百年は内亂相次ぎ、眞聖女王(八八七〜 )に至つて嬖臣を寵愛して素行修まらず、既に弛緩せし綱紀ここに全く廢頽し、群盗蜂起し、國中分裂抗争の世となれり。

 新羅衰退の端緒たる宣徳王即位(七八〇)は奈良時代の終わりを告げし桓武天皇即位(七八一)と時を同じくし、古代統一新羅の盛時は、まさに奈良七世七十年と重なれり。日韓歴史間には相符合するもの少なからず、これまた一例なり。

 然れども、新羅國勢その後頽廢衰亡の一途を辿りしに、日本奈良朝終焉は新たなる平安文明の端緒となりしは何ぞや。王位繼承の爭ひのありし事は互ひに相異ならず。又眞徳女王の淫行とは度を異にするも、奈良朝末期は稱徳帝、道鏡の治下には「輕々しく力役を起こし、伽藍を繕ひ、公私彫喪(士気沈滞)して國用足らず」の頽廢あり。歴史の岐路を日韓兩國民の素質の差に歸すること能はず。

 思ふに、日本はいまだフロンティア開發途上なりき。廣大なる關東平野の開發は奈良朝繁榮の源泉なりしも、なお北陸東北には蝦夷蟠居し、桓武帝最大の事業は坂上田村麻呂による東北經略なりき。また同時に新都平安京建設の壯圖あり、國民の士氣いまだ頽廢の暇なかりしならん。

 古代東アジアの黎明時にほとんど同じ淵源より發せし日韓の歴史の岐路を辿る毎に、兩國の置かれし地理的状況の大いなる差異に思ひを致すを禁じ得ず。



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