岡崎久彦 - 出師の表 - 九
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『出師の表』 九  岡崎久彦


 「先帝臣が謹慎を知る。故に崩ずるに臨んで、臣に寄するに大事を以つてしたまへ り。」


 謹愼の一語に孔明の人生哲學を見る。


 先に將軍尚寵を推すに際し、「軍事に暁暢す」より先に擧げしは「性向淑均」なりき。


 孔明の子を戒むる「戒子書」は曰ふ。「君子の行ひは靜以て身を修め、険(慾望を 抑へる)以て徳を養ふ。澹泊(物慾、我執に淡泊)に非ずんば以て志を明らかにする 事なし。」


 中野正剛、昭和十八年元旦の朝日新聞に、「戰時宰相論」を書き、東條をして激怒 せしむ。


 執筆前中野は三日間沈吟し、「先帝臣が謹愼を知る」の一句を得て、衾(ふとん)を蹴つて一氣に此文を草し了つたといふ。文は非常時宰相の範として孔明を擧げ、
「彼は誠忠なるが故に謹愼であり謹愼であるが故に廉潔である。」
「彼は敗戰の際には國民の前に包まず其始末を公表し、自ら責めて天下の諒解と忠 言とを求めた。之が爲に士氣却つて昂揚せられ、民其敗戰を忘ると記されてゐる」
と 記せり。孔明、街亭の敗戰後「この咎(とが)皆臣にあり。臣が明、人を知らず」と 降爵を乞ひ、右將軍に貶せられし史實あり。すでにしてミッドウェーの敗戰あり、ガ ダルナカルの敗色濃きも東條はこれを認むるの謹愼を知らざるを諷せしものなり。後 十月に中野が逮捕せられし咎は、ガダルカナル敗戰てふ「造言蜚語」なりき。


 中野は一たん歸宅後割腹す。遺書は無けれども、「東條は謹愼を知らず」が中野の 遺志なる事、廣く世に流布せり。


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