岡崎久彦 - 出師の表 - 十
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『出師の表』 十  岡崎久彦


 「命を受けしより以来、夙夜憂慮す。付託(先帝の遺囑)の効あらずして以つて先帝の明を傷つけんことを恐る。故に五月瀘を渡つて、深く不毛に入る。」


 この間の事情、後出師の表に反復記述あり。曰く、「臣受命の日より、寢ぬるに席を安んぜず、食(くら)ふに味を甘しとせず。北伐を思惟するに宜しく先づ南に入るべし。故に五月濾を渡つて深く不毛に入り、日を并(あは)せ食ふ(何日かに一度食事をする)臣自ら惜まざる(自分の生命は惜しくない)に非ざるなり。顧(おも)ふに王業は蜀都に偏安するを得べからず。故に危難を冒して、以て先帝の遺意を奉ずるなり。」


 夜は輾轉反側し、晝は食して味はふ事なし。孔明の至誠を思へば、恐らくは、誇張ならずして、眞實なりしならん。後に五丈原において、司馬仲達、孔明の軍使に孔明の日常を問ふ。答へて曰く「諸葛公は夙(つと)に興(お)きて夜に寢(い)ぬ、罰二十(二十以上の笞刑)以上は皆親ら覽(み)る(決裁する)(たん)食する所、數升(數合)に至らず。」と。主劉備を失ひしより、漢室興復の一事より他念頭になく、すべての私事、私慾を去りて國事に專念せしならん。


 蜀志曰ふ。先帝崩ずるの後
「南中諸都皆反亂す。」孔明は大喪中の故を以て兵を用ゐず、まづ呉と和睦し、建興三年五月に至つて「衆を率ゐて南征し、その秋悉く平(たひら)ぐ。軍資の出づる所、國もつて富饒なり。(征服により軍資を得たりの意か。)すなはち戎(じゆう・南蠻)を治め武を講じ、もつて大擧(北征)を俟(ま)つ。」と。


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