岡崎久彦 - 出師の表 - 八
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『出師の表』 八  岡崎久彦


 「是に由りて感激し、遂に先帝に許すに馳駆を以てす。」


 劉備、諸葛亮の獻策を容れ、「亮と情好日に密なり。曰く、孤(劉備)の孔明有るは、猶魚の水有るごとし」(十八史略)と。劉備孔明を師と仰ぐも、孔明は自らを卑下し、先帝の駆馳(使ひ飛ばす)のまま、と稱せしなり。


 「後傾覆に値(あ)ひ、任を敗軍の際に受け、命を危難の間に奉ず。」


 草廬三顧は建安十二年(AD二〇七)、諸葛亮、未だ二十七歳なり。忽ちにして曹操の大軍荊州を襲ひ、衆寡敵せず、趙雲、張飛の勇戰も僅かに退路を開きしのみ。ここに孔明任を受けて、呉を説き、劉孫同盟を結び、赤壁の戰ひに操の南進を阻む。これ翌建安十三年(AD二〇八)なり。


 「爾来二十有一年なり」劉備三顧より滿二十年なるも、數へ歴年二十一年なり。諸 葛亮の文の正確、緻密さ、ここにも見らる。


 後出師表これを顧みて語る。「昔先帝楚(荊州)に敗軍し賜ふ。曹操手を拊(う) つて謂へらく、天下已に定まると。然る後先帝東に呉を連ね、西に巴蜀を取り、兵を擧げて北征し、漢の事將に成らんとす。然る後呉更に盟に違ひ關羽毀敗す。・・・凡(およ)そ事是の如し、あらかじめ見るべき事難し、臣鞠躬盡瘁、死して後已まん。」


 後表は、この間の經緯を情勢判斷の困難さの事例として擧げたるも、孔明、兵馬倥偬の二十年を顧みて感無量なるものありしならん。


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