岡崎久彦 - 出師の表 - 七 |
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『出師の表』 七 岡崎久彦 孔明、ここに一轉して自らの心情を吐露す。 「臣本(もと)布衣(庶民の衣服、身分のいやしい者)、躬ら南陽に耕し、苟(か りそめ)に性命を亂世に全(まつたう)し(自ら田畑を耕して、戰亂饑餓の世にどうにか生き延びてゐた)、諸侯の聞達を求めず(仕官を求めて賣り込みはせず)。」 諸葛孔明自ら語る自傳なり。正確、簡潔にしていささかの文飾もなし。史書謂ふ「躬ら隴畝に耕して、・・・毎(つね)に自ら管仲、樂毅に比す。時人是を許す莫し」と。古(いにしへ)の名將管仲、名將樂毅に自らを比せしも、時の人は之を理解せざるなり。唯、良く識れる者は識れり。 管仲、樂毅に自らを比するは高慢ならずやとの關羽の問ひに對し、司馬徽(しばき)水鏡先生笑ひて答へて曰く、「管仲、樂毅と比するべからず。比すれば、周朝八百年を興せし太公望、漢朝四百年の基を開きし張子房ならん」と。 「先帝臣を以て卑鄙(いやし)となさず(こんな一介の百姓に對して)、猥(み だ)りに自ら枉屈して、三度臣を草盧の中に顧み、臣に諮(はか)るに當世の事(天 下の情勢は如何と問ひしなり)を以てしたまへり。」 ここに孔明天下三分の計を説く。曰く「操百萬の衆を擁し、天子を挾(さしはさ) んで諸侯に令す。此れ誠に與(とも)に鋒を爭ふべからず。孫權江東に據有し、國險にして民附く。與に援となす可くして、圖(はか)る(取る事を考へる)可からず。荊州は武を用うるの國、益州は險塞、沃野千里、天府の地なり。」 この地に據り、機を窺ひて中原に出づる、これぞ孔明の祕策なる。 ▼「出師の表 八」へ ▼「侃々院」表紙へ戻る ▼「文語の苑」表紙へ戻る |