岡崎久彦 - 出師の表 - 六
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『出師の表』 六  岡崎久彦


 「賢臣に親しみ小人を遠ざけしは此れ先漢の興隆せし所以也、小人に親しみ賢臣を 遠ざけしは此れ後漢の傾頽せし所以なり。先帝在(いま)せし時、臣と此の事を論ず る毎に、未だ嘗つ て桓、靈(後漢末の二帝)に歎息痛恨せずんばあらざりき。」


 一語の冗語なく、文に虚飾なく、短簡自(おのづか)ら名文を作(な)す出師の表 の唯一の例外として漢文常套の對句を用ゐ、文勢やや緩みあり。


 もとより文の主眼は後半にあり。外戚威を振ひ、宦官跋扈せる桓帝(一四六〜一六 七)、君側には帝と淫樂を共にする者のみありし靈帝(一六七〜一八九)に譬へて後 主を諫(誡)しめしものなり。前漢興隆に當り小人の跳梁を抑へし著名なる史實は缺 くも、既に劉禪に淫樂の性あるを洞察せし孔明が、直接に桓靈と比較するを憚り、前 漢より説き來たりし苦心の作なるか。あるいは、本表の大目的たる漢室の復興を説く 伏線と考ふれば力ある一節なり。


 「侍中、尚書、長史、參軍、此れ悉く貞亮、節に死するの臣なり。陛下之に親し み、之を信ぜらるれば、漢室の隆、日を計(かぞ)へて待つべきなり。」


 尚書は侍中を補佐するの役。これに杜微(とび)、楊洪を配し、長史張裔を丞相府 の長とし、蒋を參軍とせり。流石漢室再興を志して諸州より集ひし 忠節の士多士濟々、孔明出陣の後事を託するの人材に事缺かざりき。ここに孔明、文 の反復を顧みず、これと親しみこれを信ずるの益を後主に敢へて繰り返すなり。


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