岡崎久彦 - 出師の表 - 一
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『出師の表』 一  岡崎久彦


 出師の表は古今東西比ぶべきものなき名文なり。史に司馬遷、ツキディテスの達意 の文あり、詩に李白の天才あり、散文には、東に蘇東坡等の名家、西に十八、九世紀 に花開きし諸文豪の文華ありと雖も、その眞情切々として人に迫り、讀む人をして筆 者のインテグリティ(人格の高潔さ)に寸毫の疑ひも抱かしめざるは出師の表を措き てこれあらざるなり。


 時に漢末建安二十四年(AD二一九)呉、魏と通じ關羽を捉へ殺す。二二〇曹操死し、 後を繼ぎし曹丕魏帝を稱す。二二二劉備、先づ曹丕の漢室簒奪を責むる正義の師を起 すべしとの趙雲等良臣の諫を斥けて桃園の義を先にし、關羽報復の刃を呉に向くるも 大敗、これを愧ぢて白帝城の客旅舍を永安宮と改め、死(二二三)に至るまで蜀都に 還らざりき。


 既にして虎視眈々たる魏は、この機に乘じ呉と結び、南蠻と通じ、東西南北より蜀 を圍み覆滅せんとす。ここに諸葛孔明、先帝劉備の遺詔を拜して局面を打開せんと す。即ち匆々に使を呉に派して和議を成立(二二四)せしめ、南征(二二五)して南 蠻を定む。翌年は兵を新募錬成して五萬の兵を整へ、まさに北征魏に向はんとするに 當つて(二二七)表を上(たてまつ)る。これ出師の表なり。


 ここに蜀の大戰略は討賊興漢の正統路線に復帰し、甲兵已に足り兵の士氣天を衝く。 然れども孔明唯一の憂ひは先帝劉備の託せし遺孤後主劉禪の不敏なり。これを諫むる 孔明の衷情切々としてその言語肺腑を抉(えぐ)るものあり。


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