岡崎久彦 - 蹇蹇録 - 其の三十
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『蹇蹇録』 其の三十 岡崎久彦



「この際我が政府の措置如何は實に國家の安危榮辱の上に重大なる關繋を有するを 以て固より暴虎馮河の輕擧を戒むべきは勿論なれども、昨年以來我が海陸軍が流血暴骨、百戰百勝の軍功を積み、政府もまた慘憺たる經營苦心を極めたる外交上の折衝を重ね、その結果は内外人民の希望に副ひ頗る賞贊を博したるにおいて、皇上の御批准さへ既に濟みたる條約中主要の一部を烏有(ういう)に歸せしむるが如き讓歩をなすにおいては、假令當局者たる吾儕(わがせい)は國家の長計のため胸中無量の苦痛を忍び、更には將來の難局に當るを避けざるべしと覺悟するも、内より發する變動は如何にこれを抑制し得べきか、内外兩難の間、輕重いづれあるべきかと憂慮したり。」


ここに至りて陸奧の分析、文章、珍しく冴えを欠く。事態の進展、あまりに讀み筋通りなりし故か、あるいは開戰以來經營あまり苦心慘憺たるものありし故か、思考硬直したるの嫌ひあり。


これに比し、伊藤の現實主義、發想の闊達さ、常に變らず。陸奧は、勸告を「一應は拒絶し、」ロシアなどの「底意を探求したる上外交上一轉の策を講ずべし」と、猶既成事實に未練を殘したるに對し、伊藤は、露國の意圖は「今更その底意の淺深を探るまでもなく甚だ明白なり」と斷じ、これを我より挑發するの危險を指摘せり。ここにおいて陸奧は飜然として自説を撤囘せり。


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