岡崎久彦 - 蹇蹇録 - 其の二十六
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『蹇蹇録』 其の二十六 岡崎久彦



三月遂に李鴻章は馬關に至れり。


第一囘會合においては、清国側はまづ何よりも停戰を實現せんとし、日本側はこの清國側要求を 聽取するにとどまりしが、「李鴻章は伊藤總理と舊識なるが故に、談緒再び啓け、殆 んど數時間の永きに亙(わた)れり。彼は古稀以上の老翁に似ず、状貌魁偉、言語爽 快にして、かつて曾國藩がその容貌、詞令以て人を壓服するに足ると言ひしの的評な るを覺ゆ。」


ここに李鴻章は才辯を振へり。「日清兩國は人種相同じく文物制度總てその源を異 にせず、今や一時交戰に及ぶと雖も彼我永久の友誼を囘復せざるべからず。そもそも 今日において東洋諸國が西洋諸國に對する處置如何を洞知し得るは天下誰か伊藤伯の 右にあるものあらんや。西洋の大潮は日夕に我が東方に向ひて流注し來る。これ實に 吾人協力同心してこれを防制するの策を講じ、黄色人種相結合して白皙人種に對抗す るの秋(とき)に非ずや。」


「また彼は日本比年の改革事業を稱贊し、一にこれを伊藤總理爲政の宜しきを得るに 由ると稱し、清國の改革未だその效を奏せざるを以て自己才略の短なるを歎じ、更に 語を繼ぎて、今囘の戰爭は、一は、日本が歐州流の海陸軍組織を利用して成功し、黄 色人種が白皙人種に一歩も讓る所なきの實證を示し、二は、清國が長睡の迷夢を覺破 されたるの僥倖あり、その利益洪大なりと言ふべし。もし將來兩國相結託するを得ば その歐州強國に敵抗するもまた甚だ難事に非ざるべし。」


これを陸奧評して曰く。「彼は縱横談論努めて我が同情を惹かんとし、間々、好罵 冷評を交へて戰敗者屈辱の地位を掩はんとしたるは、その老獪かへつて愛すべく、流 石に清國當世の一人物に恥ぢずと言ふべし。」


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