加藤淳平 - 日本の文化傳統、如何にして切斷せられしや(後篇)- 十七 |
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日本の文化傳統、 如何にして切斷せられしや(後篇) 加藤淳平 十七 福田以後の日本外交 福田以後の首相、その外交方針を踏襲せざりき。亞洲の國日本の立場に立ちて、日本の國益を根本に据ゑたる福田内閣の外交、日本の、漸く占領期の呪縛より脱するやを期待せしめたるも、一時のことに終りぬ。 福田内閣の後を襲ひし大平内閣、「全方位外交」を弊履の如く棄去り、日本外交を米國寄りに修正す。更に露西亞のアフガニスタン介入を機に、米に全面的に同調す。米國同調は、モスクワ五輪競技大會不參加に及べり。 大平は、政治的系譜よりせば、吉田、池田の系統に屬し、自身熱心なる基督教徒なり。されば日本外交にとり、他の何より對米協力を優先すべしとの信念、他の政治家より強かりけむ。近隣地域、亞洲への關心無きに非ざるも、亞洲諸國との連携より、濠洲等基督教アングロサクソン諸國の參加せる太平洋地域協力を優先す。之亦、米の意向に沿ひたる政策なりき。 大平以後の首相の内、最も長く政權を擔當せる中曾根、亦大平の基本外交路線を繼承す。中曾根、政權獲得當初は、韓國、中國との外交に意欲を燃したるも、中國の天安門事件に際會し、失望せるにやあらむ。首相在任の全期間を通じ最重要視せるは、米レーガン大統領との親交誇示と歐洲外交なりき。 此の頃より日本政府、外交政策方針表明に際し、日本は「西側の一員」なり、日本と歐米に「共通せる價値觀」ありと繰返すを常とす。日本の、亞洲の一國たるより、歐米に近き國たらんとの意識、日本政府内に定着せるを示すなり。 ▼ 十八へ ▼「侃々院」表紙へ戻る ▼「文語の苑」表紙へ戻る |