加藤淳平 - 日本の文化傳統、如何にして切斷せられしや(後篇)- 十一
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日本の文化傳統、
     如何にして切斷せられしや(後篇)
                  加藤淳平


十一 「先進國」と「後進國」


 一九六〇年代に世界の注視を浴びしは、「南北問題」なりき。第二次大戰後に獨立を達成せる新興獨立國、政治的獨立を獲得するも、經濟的自立より程遠く、植民地時代の植民本國の投資を打切られ、經濟的に停滯す。對するに歐州諸國は、多額なる米國の援助を受け、戰災よりの復興を達成し、其の後の經濟發展期を迎ふ。斯くて北の歐米諸國、即ち「先進國」と南の新興獨立國、即ち「後進國」との經濟格差、擴大する一方なりき。


 南北格差とその増大の問題は、「南北問題」と呼ばる。米國主導のもと、國連及び世界各國、その解決に取組みたり。斯かる國際的な場に於て日本、經濟力、國民が生活水準、未だ歐米諸國に及ばざるも、北の「先進國」の一員なりと認めらる。


 國際協力開發機構(OECD)は、第二次大戰後の歐洲復興の爲、設立されし國際機關にして、歐米諸國の倶樂部が如きものなりしに、米の強力なる推輓を受け、日本は此の機構加入を認めらる。そは日本の、世界の「先進國」の一員たる資格を、公認せらるるを意味す。


 從前の世界にては、人種的・地理的觀點に立ちて、歐米と亞洲・非洲に分くるが通例なりき。然るに此の時期より、米國と國連の主導のもとに、世界の見方轉換す。經濟的觀點に據り、北の「先進國」と南の「後進國」に世界を分くると共に、双方の對立を見るが習ひとなる。從前は亞洲の一國たりし日本、「先進國」の一員とされ、歐米の一部なりし中南米、經濟發展の遅れたる「後進國」に入る。


 敗戰國民たりし日本人、日本の「先進國」と認めらるるをいたく喜べり。當時大多數の日本人、戰時中と同じく、日本を亞洲の一國なりと考へたり。されど「戰後思想」の社會に浸透し、日本人の對亞洲親近感弱まれり。國際社會に於て日本の「先進國」と扱はるるは、日本人の自尊心を滿足せしむ。同時に日本人の間に、亞洲等「後進國」を蔑視する感情の廣がりて、亞洲と亞洲人より、日本人の心を引離しぬ。


 歐米、殊に米國の事象は、凡て光り輝き、日本、亞洲は陳腐、凡庸に見えたり。


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