加藤淳平 - 日本の文化傳統、如何にして切斷せられしや(後篇)- 十 |
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日本の文化傳統、 如何にして切斷せられしや(後篇) 加藤淳平 十 一九六〇年代の日本(二) 米國との關係 一九六〇年代は、日米關係蜜月の時代なりき。六〇年代當初の米國、日本の動向に多大の懸念を抱き、日本人の對米感情を好轉せしめんが爲、全力を盡せり。日米の經濟閣僚を定期的に會談せしめ、著名なる日本學者、ライシャワーを駐日大使に任命し、輿論影響力大なる作家等を米國に招聘す。此等の措置奏功し、日本人の對米感情、著しく改善せり。 日米安保新條約締結は、日本を亞洲東部に於る米國第一の友邦とす。同條約第二條の、日米經濟協力増進規定の基礎の上に、日本は米國より最先端工業技術の供與を受く。日本の高度成長の一因は、米最先端技術の利用なりき。 日本政府の高度成長政策、日本の米國に對する政治的依存・從屬の繼續を意味せるが故に、米、之を歡迎す。此は占領期より、日本人の對歐米劣等感、對亞洲優越感を知悉せる米國の、日本を亞洲より引離し、歐米の側に引込まんとの政策に合致せるなり。日本は、米の推輓に因り、國際通貨基金、世界銀行、國際協力開發機構等の國際經濟機關に加入するを得たり。國際的地位を高め、世界の經濟的主要國の一たるを認めらる。 政治的にも日本は、米國最大の政治問題たりし越南(ヴェトナム)戰爭に於て、概ね米の立場を支援せり。米國政府、沖繩の日本への返還を承認せるは、越南戰爭に對する日本の政治的支援を、評價せるが爲なりけり。 ▼ 十一へ ▼「侃々院」表紙へ戻る ▼「文語の苑」表紙へ戻る |