加藤淳平 - 日本の文化傳統、如何にして切斷せられしや(後篇)- 一
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日本の文化傳統、
     如何にして切斷せられしや(後篇)
                  加藤淳平


 獨立回復


 一九五二年四月、外國軍の占領として世界史に例無き、七年の長期に亙りし米軍の占領は終りぬ。日本は、獨立を回復せり。此の時期に獨立を回復し得たるは、米國の意向、國際情勢、更に吉田茂首相が努力に因る。吉田の「曲學阿世」と評せる南原繁等「全面講和」派、恰も占領の繼續を望むが如く、ロシア、中國を含めたる全交戰國との講和に非ずんば、講和すべからずとの、非現實的なる反對運動を展開せり。早期講和を希求せる國民、南原等の講和反對運動に、背を向けしはむべならずや。


 獨立回復せるも、米軍占領は、後に惨憺たる遺産を殘したり。奇態なる文體より、米國人が手に成ること明白なる、「日本國憲法」の下、政治制度は、圓滑に機能し得ず。日米關係に、獨立國と稱し得ざる不平等性殘れり。米國直輸入なる經濟的、社會的諸制度は、日本の現實と適合せず。言論界は、占領軍に迎合するを習性とし、政府の爲すこと凡て、現實を無視し批判す。教育は非效率なる教育制度に縛られ、日本の文化傳統の抛擲と、歐米の理想化を教ふるのみ。


 加ふるに日本國民が心には、精神的外傷深く刻まれたり。敗戰に因るにあらず、米占領軍、言論界、教育に因りて刻み込まれたる心の傷なりき。


 負の遺産多しと雖も、日本の文化傳統、未だ切斷せられず。切斷の一歩を踏出したるのみなりき。當時の日本人は、飽くまで日本人にして、日本の文化傳統に從ひ、眞摯且つ獻身的に日本復興の爲に働きたり。斯くて日本は徐々に、戰爭の破壞より立直りぬ。


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